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佐世保の歴史

佐世保のあけぼの

3 旧石器時代の人々のくらし(2)

 隠居岳(かくいだけ)の南丘陵の先端部台地にある上原遺跡で、土中から採取された花粉の中にハシバミ属という植物が検出されている。これは、現在青森県より南には見られないもので、主に食物として利用していたと思われることから、当時の気候は相当に寒冷だったと推定される。平戸市の堤西牟田(つつみにしむた)遺跡にも、同じくハシバミ属の花粉が出土している。当時はこのほかにも、図4のような植物が食用に使われていたと思われる。
 図1を見ると烏帽子岳周辺には、多くの旧石器遺跡が集中する。中でも相浦(あいのうら)川源流の下宇戸(しもうと)付近、重池(かさねいけ)付近、西方池(せいほうのいけ)、満場(まんば)など当時の面影を残す石器などの遺物が残っており、寒冷な気候だったにもかかわらず、標高の高いこの地域にも食糧となりうる植物や動物群を求めた人たちの活動の場だったことを示している。
 針尾付近にも多くの遺跡が残っているのは、石器の石材の原産地に近いという特性が幸いし、周辺に住む人たちとの交流が盛んに行われていたからでもあろう。
 しかし、この時代は一定の場所に定住するということはなかったとされている。したがって多くの遺跡群は、狩りのための宿営地だったと推測される。
 世知原(せちばる)町や吉井町、佐々町との境をなす広い溶岩(ようがん)台地上の板山(いたやま)や牟田張(むたばり)は、九州でも有数な旧石器遺跡群として知られている。そこは狩りをする人たちの宿営地でもあった。遺跡群から狩猟用具のいろいろな石器が出土し、当時の人たちの生活を物語ってくれる。
 しかし、この後期旧石器時代には、あまり洞穴が生活の根拠地には使われていない。泉福寺洞穴やこも田洞穴それに天神洞穴でも人が住んだ形跡は見られるが、縄文時代ほど重要視されていないのである。それは移動生活をするには不適であったからだろう。ようやく1万5千年くらい前から洞穴の利用が頻繁(ひんぱん)になってくる。
 この頃になると、地球は次第に暖かくなり、日本は大陸から離れて、すっかり動物相も変わってきた。約2万年もの長い間君臨したナイフ形石器文化が衰退し、尖頭器(せんとうき)(石槍)文化が力を持ちはじめ、次第に石器も小型化する傾向が強まっていった。このことは、佐世保周辺だけではなく、わが国全体にも共通する現象であり、当時の海面は、現在の海面より約50m低い面まで上昇していた。旧石器人をとりまく環境が大きく変化を見せ、次第にわが国の原風景が形成されはじめてきた。

図4 当時の狩りの風景(想像画)

図5 細石器文化期の県北遺跡分布図

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