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佐世保の歴史
縄文時代の佐世保
3 洞穴に住む人々
なぜ、最西端の泉福寺洞穴で発見された最古級の土器が使われることになったかは、十分解明されていない。温暖化と照葉樹林の森の出現は、前述のように土器の発明をうながし、人々の生活や文化を大きく変えた。
先にも述べたように、煮炊きをすることでドングリ、カシなどのアク抜きが可能になり、今まで固くて食べ物にならなかった木の実や根茎類が、これまでよりおいしく、新鮮に食され、食生活が豊かになっただろう。
昭和54年、豆粒文土器の復元可能な土器片が出土した、第二洞穴のテラス付近に炉のあとが見つけられた。それはその場所にヒトの生活跡があったことを裏づけ、豆粒文土器についているススと、煮こげなどの炭化物の付着は、洞穴人が煮て食べていたことを証明している。
夏涼しく冬暖かい泉福寺洞穴は、当時の人々にとっては、格好の住まいであった。しかも、南向きで、すぐ下のほうでは、こんこんと湧く水があった。30mほどの広がりの中に、4つの洞穴があり、時代を追うごとに、次第に住む洞穴を変えている。風化によって形成された洞穴といわれているが、高さが約5m、奥行が4〜5mもあり、当時の人々の生きた有様を詳細に現代の我々に残してくれている。
泉福寺洞穴を含め市内には11の洞穴遺跡がある。まさに洞穴遺跡の宝庫といってよいだろう。しかも相浦川の流域に集中している。北松浦郡の佐々川流域にも福井洞穴をはじめ洞穴遺跡が集中している。なぜこのように洞穴が多いのだろうか。
それは北松浦(きたまつうら)半島周辺の地質の構造が大きく関係している。佐世保市内でも周辺地区でもそうだが、市内の眼鏡(めがね)岩や福石観音、須佐(すさ)神社の穴妙見(あなみょうけん)、小佐々町の大悲観(だいひかん)、吉井町の御橋(おはし)観音のように大自然のおりなす風光明媚な砂岩の風化地形を目にすることができる。
この地域は新生代第三紀層という地層が、約2千8百万年前ころから8百万年前ころにかけて、できあがった砂岩層である。その後の地質の変化や火山活動によって溶岩台地が全体に広がり、川の水や海面変化、風の力で浸食され、大きな洞穴や岩陰ができたのである。
その外にも岩の裂け目や地盤の変動でできた洞穴も少なくはない。これらが先史時代(旧石器〜古墳)の人々にとって最高の住まいの条件を満たしていた。やがて時代が下り、奈良・平安期の人たちも利用していたのだ。