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佐世保の歴史

縄文時代の佐世保

4 縄文人のくらし

 縄文人たちのくらしはどうだったのだろう。岩下洞穴と同じ相浦川下流の下本山岩陰(しももとやまいわかげ)が縄文時代の生業をよく物語っている。
 岩下洞穴は石盛岳の中腹の標高約200mに位置し、昭和38年(1963)地元高校生の踏査によって発見された洞穴遺跡である。当時、國学院大学の麻生優講師の現地調査で確認され、佐世保市の委託で昭和39年(1964)から三年間、学術調査が実施された。発掘調査は麻生講師の門下生や地元の高校生など、若い世代の人たちが多数参加して進められた。
 その結果、約1万年前、土器の表面に貝殻などで文様を入れた条痕文(じょうこんもん)土器、約9千年前のだ円や山形の文様を施した押型文(おしがたもん)土器、約4千5百年前の縄文時代中期の土器が4,000点以上も出土した。また、1,800点もの矢じり、石槍、石斧などの労働用具や皮はぎ、石皿、磨石(すりいし)などの生活用具のほかイノシシ、シカ、ウサギ、キジなどの骨がたくさん出土した。これらのことは、岩下人が主に狩猟や採集など山の幸に頼った生活をしていたことを示している。押型文(おしがたもん)土器と同じ地層から表面を磨いた跡のある矢じりが400点以上も出土した。他の遺跡からもある程度は出土しているが、このように多量の磨いた矢じりが出土した遺跡は見られない。こうした高い技術を持った集団だった。また、泉福寺洞穴と同じ条痕文土器の出土は、その拠点の移動を示唆(しさ)している。
 相浦川下流域に位置し、沖積地(ちゅうせきち)に面した下本山岩陰も、高校生の踏査(とうさ)で分かった遺跡である。標高約16m、佐世保市の委託で麻生優講師を団長にして昭和45年(1970)発掘調査が実施された。その結果、今から6千年前から約2千8百年前まで、海の幸に依存して生活していたことが分かった。轟(とどろき)式・曽畑(そばた)式土器などの出土は、福岡や佐賀地域などとのつながりを示し、朝鮮半島と交流のある土器でもあった。
 検出された動物遺体はマダイ、クロダイ、ボラ、サメなどの魚類やアワビ、サザエ、ウミニナ、サルボウ、ハマグリ、オキシジミなどの節足類(せっそくるい)や貝類が厚く層をなしていた。海辺や船を使った沖合いでの漁労(ぎょろう)の生活を中心にしていたことが見えてくる。イノシシやニホンジカ、キジの骨も出土し、矢じりや掻器、石皿、石銛(いしもり)の他、釣針(つりばり)やヤスなどの骨角器が多く出土していた。豊かな海と海浜の生活、海岸線はすぐ目の前に広がっていた。

図6縄文時代の石器

図7 市内出土の縄文土器

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