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佐世保の歴史
縄文時代の佐世保
コラム
佐世保地名の由来
サセホかサセボか、佐世保市内に住む市民もその由来は何から来ているのか、わからないまま今日に来ている。したがってこれまで定説はない。佐世保市役所の公文書は「サセボ」と濁音で統一している。佐世保市史・総説篇(昭和30年刊)には次のような説をあげている。
(1)佐世保には「サセブ」と呼ばれる木が繁茂していたから。
(2)佐世保は「佐世」と「保」の結合地名で、佐世保の「世」は古訓で「シ」である。佐世は「サシ」で「瀬」をさし、「サシ」から「サセ」に転訛したもの。「保」は地団が地名化したもの。
(3)大宝令で「五家を以て保となす」と定めた当時、ここらあたりに、5、6軒の家があったので、近くの佐世の名をつけて「佐世保」となった。
(4)アイヌ語で「サ」は広いという意味、「セブ」は谷という意味で「サセブ」から「サセボ」に転訛したもの。
(5)神功皇后の三韓征伐のとき、途中で風のために船の帆が裂けたので修理のため佐世保港に寄られた。それが「サケホ」と呼ぶようになり、それが「サセボ」に転訛した。
室町時代の松浦党一揆契諾状に「させほ石見守元」の名がある。江戸時代の元禄3年に記された大村記には、「させぼ」と濁って記録してある。明治になって海軍は「させほ」、大正時代の佐世保日日新聞はSASEHO、同12年2万5千分の1地形図は「させぼ」、同年の鉄道省旅行案内には「させほ」、昭和12年大日本職業別明細図(地図)長崎県版は「させほ」、戦前の絵はがきのスタンプは「させほ」派が多い。国鉄も戦前は「させほ」戦後は「させぼ」といろいろな呼び方をしている。
佐世保の地形的な見方をすれば、坂田直士の説で、狭い川瀬の意味「狭瀬」に、保は中世の荘園公領制の国衙との関わりで成立した「保」がついたと推定されると述べてあるが、「ホ」か「ボ」に決着はついていない。