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佐世保の歴史

弥生時代の佐世保

2  弥生のムラ

 四反田遺跡は、集落跡(ムラ)である。20棟以上もの竪穴(たてあな)式住居跡が検出された。東西約80m、南北50mの規模で集落を構成している。竪穴式住居は2本柱の古いタイプのものから、4本柱のタイプ、さらに10号住居のように巨大なものに移行することが判っている(図1)。集落は図2に示すようになっていたと考えられ、集落区内にはイチイガシ、アカガシなどの貯蔵穴、屋外炉(おくがいろ)、堀立柱(ほったてばしら)の建物、小さな住居などが密集していることから、いろいろな作業場になっていたと思われる。集落の外区は東の方に成人墓地、西の方には小児墓地さらに南には、石棺墓群が配置され、人があまり立ち入らない場所になっていた。
 本遺跡では矢じりは約2,300点も出土しており、そのほとんどが伊万里の腰岳産黒曜石を材料としている。四反田縄文人が使用した矢じりは、小型・軽量の狩猟用であるが、四反田弥生人の矢じりは重厚・粗雑な武器だったと考えられている。なぜ、四反田で大量に武器を作っていたのだろうか。弥生時代前期は戦争の始まる時期である。そのため狩猟用の矢じりが武器として利用されたのではないかと思われる。この地域では青銅器や鉄器などの金属器は普及していた形跡がなく、したがって石器がその代用品の役割をしたのであろう。
 農耕の始まりでムラが作られ、お互いが戦争によって次第に力を強めクニとなる。これがやがて国家の形成につながっていったと考えられる。
 四反田の人々は福岡平野や唐津平野、さらには佐賀平野などとの交流を行っていた。したがってその交流の中で各地の石器の組材や石器が持ち込まれたのであろう。
 偏平片刃石斧(へんぺいかたはせきふ)や抉入片刃(えぐりいれかたは)石斧、蛤刃(はまぐりは)石斧などの石材は対馬や福岡県の今山産、錐(きり)の役割をした石"錐(いしきり)の組材の安山岩は北松浦郡の吉井町福井産、漁網用の石錘(せきすい)の組材は西彼杵半島産である。これらは主に海路による交易によってもたらされたと推察される。さらに、朝鮮系の無文土器や支石墓(しせきぼ)など大陸系の遺物が四反田でも見られる。これらのことは、他の地域との交流がなされていたことを示唆している。
 長い年月の中で、自然災害やさまざまな環境変化がおこり、相浦川の流路がたびたび変化したこともあった。約2000年前の弥生時代の中期の初めに、このムラは水田に姿を変え、人々は竹辺(たけべ)付近に移っていくのである。

図4 弥生時代の土器 図3 弥生時代の石器(四反田)

写真1 四反田遺跡の発掘現場