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佐世保の歴史
弥生時代の佐世保
3 海人の暮らし 高島の人々
九十九島の島影が夕映えの海に輝いている。幾千年もの間くり返してきた光景だが、厳しい大自然に敢然と戦いを挑み、必死に生きてきた人々が高島には住み着いていた。
宮の本遺跡は弥生時代前期〜中期の箱式石棺(はこしきせきかん)と土壙墓(どこうぼ)からなる埋葬人骨41体を中心とし、大陸系の磨製(ませい)石器や多量の弥生土器に代表される大遺跡である。
それ以前の旧石器の遺跡が島の南部に残っており、狩りの道具の台形石器や細石核も数点採集されている。また、約6千年前の縄文時代の前期から中期・後期・晩期の土器や石器などの遺物が多く表採され、前時代にも人々が生活していた証を残していたことが、高校生の考古学同好会や、中学校郷土研究部のフィールドワークの結果で明らかにされている。
昭和52年(1977)に宅地造成の最中に発見された弥生墓地の箱式石棺をきっかけに、その後、佐世保市教委の手で、昭和55年まで発掘調査が実施された。
出土する弥生土器は弥生前期末(約2千2百年前)の板付U式土器であり、約2千年前の弥生時代中期の半ばのころの祭祀(さいし)遺構で、出土する丹塗(にぬ)り高坏(たかつき)を最後に高島の弥生文化はその痕跡を見せなくなる。出土した自然遺物は、アワビやサザエなどのほかにマツバカイ、クマノコガイ、クボガイなどの貝類、サメ、マダイなどの魚類、ウミガメなどの爬虫類(はちゅうるい)、アシカ、イノシシ、ニホンジカなどの哺乳類(ほにゅうるい)も見られ、農耕を主体にしながら海産物への依存をしていたと思われる。
高島の宮の本遺跡の弥生土器は、北九州地方域の影響を受けていたと思われる遠賀(おんが)川式や、板付系統のものが多く、海上ルートの交易が続けられていたと考えられる。この島で農耕をしたと思われる何点かの石庖丁(いしぼうちょう)が出土している。また、大陸系の磨製石剣、片刃石斧も出土している。遺跡はほとんどが砂丘に立地しているそのため、標高も約4〜5mと低く、農耕の場所としてはあまり恵まれていないが、番岳(137m)の東裾は湿地もあったことが確認されている。したがって、この付近で水田が営まれていたと推察されている。
宮地区の萩坂(はぎさか)町の中村遺跡にも、弥生時代の箱式石棺が出土している。しかし、この遺跡は宮村川の沖積地になっており、農耕主体の集落地と思われる。弥生時代中期の福岡県で見られる須久(すく)式土器が出土している。