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佐世保の歴史
古墳時代の佐世保
1 古墳時代の始まり
弥生時代の半ばすぎになると、各地に小さなクニが生まれてくるようになった。それらのクニは次第に統合され、中国の歴史書によると、約2千年前には百余国となり、三世紀になると邪馬台(やまたい)国が生まれる。各地の発掘の成果から近畿地方や北九州地方を中心に、大きな勢力があったことが分かり、『魏志倭人伝』に記述されている邪馬台国を中心にした国々と考えられている。中でも北九州地方には、吉野ケ里(よしのがり)遺跡や一支(いき)国の壱岐原の辻(はるのつじ)遺跡、伊都国(いとこく)の平原(ひらばる)遺跡、福岡の平塚川添(ひらつかかわぞえ)遺跡などが、王都想定地として次第に明らかになってきている。
その後、わが国では四世紀半ばから五世紀にかけてヤマト政権が誕生したと思われ、巨大な古墳が数多く造営され、その前後から各地に古墳が造られ始めた。
昭和53年(1978)の冬、圃場整備(ほじょうせいび)中の竹辺付近の水田(図4:6)で相浦中学校郷土研究部の生徒が、掘り返された土の中から灰色の硬い質の土器と、弥生土器によく似た茶褐色の土器を採集した。佐世保市文化科学館に届けると古墳時代に使用されていた須恵器(すえき)と土師器(はじき)という土器であることがわかった。
相浦川下流域の沖積地は佐世保における古墳時代遺跡の可能性があり、この時代の集落が存在すると思われる。
また、大潟町の河岸段丘の中屋敷遺跡(図4)でも、宅地の造成で破壊されているものの、古墳か墳墓の様相を示す遺跡があり、多くの須恵器が採集された。須恵器の窯跡だったとも考えられている。
須恵器は朝鮮半島からもたらされた陶質(とうしつ)土器の流れを汲(く)む土器で、五世紀ころから日本でも焼かれることになった。
また昭和54年頃見つかった、道路改修工事中の愛宕町の井手原遺跡や、川下(かわしも)町、木宮(きのみや)町、愛宕(あたご)町付近は須恵器や土師器の破片が多量に見つかることから、弥生時代の延長上に、古墳時代の人々が住んでいたことが推察される。
ヤマト政権の国内統一の結果、畿内を中心として大型前方後円墳などの造営が進む中で、地方でも前方後円墳の造営が見られるようになるが、残念ながら佐世保にはヤマト政権と関連のある遺跡は残っていない。そればかりではなく武具や農具、さらには祭祀に使われたと思われる青銅器の類(たぐ)いも見当たらない。しかし、地域の有力者のものと思われる古墳は、わずかだが残っている。