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佐世保の歴史
古墳時代の佐世保
2 佐世保の古墳と人々のくらし
現在、市内で確認されている古墳は、五ケ所である。長い時の流れの中で埋もれていった古墳もあると思われるが、中小の河川が多く、沖積地の少ない地形からすれば、やむをえなかったと思われる。
さらには、その耕作地の狭さから、周辺部をまとめあげる有力な古墳時代の支配者は浮かび上がってこない。しかし、縄文・弥生と続く相浦川下流の沖積地はをはじめ、市内で注目すべき遺跡はあちこちに残されている。
それは早岐の広田地区の三島山古墳と、針尾島に残されていた江上町松ケ崎古墳、さらに宮津付近の鬼塚古墳と西泊鼻古墳、宮村川の沖積地に立地するテボ神古墳などである。いずれも佐世保の南部地域に多く、特に旧宮村付近に集中する傾向がある。
宮地区は、宮村川下流の肥沃な沖積地と、大村湾に面した良好な港を有している。そのため対外的な先進地との交易が盛んに行われていたと思われる。その宮村川の沖積地に立地するテボ神古墳は、発掘調査によると石室部が露出し遺跡は破壊されていたが、それでも六〜七世紀に造営された当時の権力者の象徴の、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)・銀環(ぎんかん)などの装飾品や鉄鏃や刀子(とうす)などが副葬されていた。
宮津の港を見下ろす場所に付近の有力者のものと思われる円墳で鬼塚(おにづか)古墳(口絵13)がある。当時の原形を残す貴重な古墳であるが、石室付近の遺構がきちんと残っておらず、調査も十分には行われていない。その近くの西泊鼻(にしどまりのはな)古墳も同じように湾の突端(とったん)に営なまれ、周辺部から須恵器片や土師器片が採集されている。 また、早岐の瀬戸に面し、かっては島であったと思われる三島山古墳群は、主墳が箱式石棺を持つ小円墳と箱式石棺から構成され、小森川の下流域の早岐地方を支配する有力者のものであったと思われる。
針尾島の江上湾に面した突端部には松ケ崎古墳がある。昭和46年に調査が実施され、円墳の石室内から鉄製の直刀(ちょくとう)が検出した。この外にも土師器甕(かめ)の副葬品が出土した。これらは六〜七世紀のものと思われる。北部針尾を治める有力な支配者の存在を物語っている。
こうしてみると佐世保市内の古墳の一部は海との関わりが強いように思える。松ケ崎古墳のように岬に立地し、主体部も似ている古墳が、遠く対馬の浅茅湾(あそうわん)に見ることができ、この時代の人たちの交流や古墳の造営に使われた人々のくらしぶりをうかがい知ることができる。