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佐世保の歴史

古墳時代の佐世保

3  須恵器と土師器

 古墳時代に使用されていた日常のやきもの中に須恵器と土師器がある。佐世保市内でもこの土器が出土する地域は弥生時代と同様にかなり少ない。
 古墳時代の人々の生活した証は、支配者にとっては古墳であり、ヤマト政権が誕生する流れも古墳を中心に記述されている。しかし、地方の有力者を支えた人たちのことを記述する文献や資料は残っていない。いきおい考古学的見地からの発掘調査や表採資料によって、当時の人たちの日常的な生活に迫らざるをえない。
 「古墳時代の始まり」で述べたように、市内の古墳時代遺跡は図4のように分布しており、遺物の散布地も限られている。大半が市内を流れる川の流域に集中し、拠点的な遺跡は、相浦川の下流域付近、宮村川下流域付近、さらに小森川流域にあったと見ることができる。
 須恵器は朝鮮半島から伝わった青灰色の等質土器からの系統を持つ土器で、弥生土器からの伝統を継承している土師器とは根本的に焼成のあり方が異なっている。
 須恵器の生産が始まったのは五世紀の中ごろからといわれている。その特徴は土器の成形のときに、ろくろを使うこと、焼くとき窯を用いて一時空気を薄める還元焔焼成(かんげんえんしょうせい)をしていることである。この方法で焼くと胎土(たいど)中の鉄分が還元され、灰色や青灰色に変わる。また、硬くしまって吸水性が少なく、容器として優れている(貯蔵、調理、食器、祭祀用に使われている)。これらは、なだらかな傾斜地の窖窯(あながま)で焼かれ、大規模な窯跡としては、大阪の陶邑(すえむら)古窯群や太宰府の宮ノ本古窯群などがあり、七世紀になると全国的に拡散している。(口絵12)
 一方、土師器は赤焼の土器をいう。三世紀ころから焼かれ、もっばら日用の壺、煮炊きの甕、物を盛る坏(つき)や高坏、竃(かまど)に使われていた。当初は文様を入れていたが、後にていねいに刷毛目(はけめ)で整えられるようになった。明治15・6年頃、三川内今福遺跡で発見された壺は、写真6の刷毛目を入れた布留(ふる)式土師器だった。このような完形品は市内ではほとんど出土せず貴重な遺物である。
 写真5の上竹辺田遺跡の土師器や須恵器片は、五世紀のころのものである。やがて土師器は貯蔵の機能を須恵器に代わられ、もっぱら煮炊き用の甑(こしき)や物を盛る用途として、後世まで使用されている。旧阿弥陀寺跡から出土した土師器のように、中世のものと推察されるものも存在している。

図4 佐世保の古墳時代遺跡分布図

写真5 上竹辺田遺跡付近の土器

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