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邪馬台国はどこか。古来女王卑弥呼の名とともに、あちこちで論争が続き、わが国の歴史の中でも謎が多く、注目を集めている。
 中国の歴史書の『魏志倭人伝』の記述が、大変まぎらわしく、様々な解釈が行われていることから、その論争に拍車をかけている。しかし、おおむね北九州の山門郡にあったという説と畿内大和説とに大別される。4〜50ケ所にあったとの説がある。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡が見つかったときは、北九州説に軍配が上がったかに見えたが、つい最近奈良県の勝山古墳の木製品の伐採年代が三世紀初めと発表され、畿内説も負けてはいない。 この論争に最初に目をつけたのは、江戸時代に文治政治を行い、二人の将軍に仕えた朱子学者の新井白石である。彼は最初は畿内説を説いていたが、やがて北九州説に変わっている。以来350年余り論争が続いている。 さて、県内にも邪馬台国があったという説がある。作家の宮崎康平が島原半島にあったといい、東彼杵町にあるひさご塚を卑弥呼の塚とし、邪馬台国を東彼杵にあったという説を野津清が唱えた。また、田平町にあったという説を唱えているのは、藤澤龍雄である。 近年吉野ヶ里遺跡と姉妹遺跡となった壱岐の原の辻遺跡の発掘調査は、弥生時代の環濠集落の実態と当時の生活、一支国の都の様子を明かにした。  さらに、その邪馬台国の佐世保説を唱えたのは、郷土史家の恋塚春雄だが、著書『真説邪馬台国』の中で、相浦の水銀山に着目し、当時の土器に水銀を塗った丹 (に)と、古代中国の一巡方位式を結びつけ、竹辺町の上竹辺田遺跡を邪馬台国とした。その遺跡は相浦中の広川君たちが発見したもので、弥生時代の後期から古墳時代の人たちが住んでいた。なお、夢見五十男の研究では、邪馬台国に支配されていた国の巳百支国(しおきこく)を佐世保湾一帯としている。結局、どこにあったかわからない方が夢がある。

 
絵女王卑弥呼の想像画