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佐世保の歴史
古代の佐世保
1 松浦郡と彼杵郡
ヤマト政権がほぼ全国の統一を終え、大陸との交渉を続ける中で、次第に朝鮮や中国からも多くの人たちが、わが国にやってきた。当時の人たちの伝えた技術や漢字や仏教がわが国の歴史を、大きく変えることになった。
彼らが持ってきた文化が、佐世保の文化にどのような変化をもたらしたかは定かではないが、わずかに残された古墳や遺跡が、人々の住んだ証を残している。
やがて時代は流れ飛鳥・奈良の時代になり、中国の律令(りつりょう)制度にもとづく天皇中心の国家制度が次第にととのってきた。また、国家の正当性を強調するため歴史書の編集や神社やお寺の建立が全国的に進められた。
その中で編集されたのが全国各地域の伝説や特産物、ヤマト政権が生まれていく経過を詳しく書いてある『風土記(ふどき)』である。八世紀の半ばに完成したといわれるが、和銅6年(723)に全国の国ごとに作らせたとされている。現在、五ケ国の風土記が残っており、その中の一つが『肥前風土記』である。同風土記によると、佐世保に関係すると思われる地名や、地方を平定する内容の伝説などが書かれており、その当時の人々の姿を読みとることができる。当時の佐世保は、松浦郡(まつらのこおり)と彼杵郡(そのぎのこおり)の中にあったと思われる。松浦郡は11の郷と26の里、彼杵郡は4つの郷と7つの里があったと記録されている。
その中で、いくつかの地名が記されており、現在の地域と結びつけることができる。速来村(はやきのむら)は現在の早岐であると考えられ、速来津姫(はやきつひめ)は早岐地方の豪族の巫女(みこ)であろうと考えられる。また、健村之里(たけむらのさと)がどこかについては宮付近という説や三川内の今福説もあるが、四反田遺跡の存在や竹辺付近の古代遺跡の多さからして、現在の竹辺の近くであろうと思われる。
このようなことから健津三間(たけつみま)とは、竹辺付近にまで海岸線があったという四反田遺跡の報告などから竹辺付近の有力者であろう。彼は神代直から追われて落石岑(おちいしのみね)に逃げたとなっているが、菰田(こもだ)ダムの近くには、乙石(おといし)という地名が残っていることからその付近だったと推察される。さらに箆簗(のやな)という有力者が捕えられ、玉を献上している。これは、佐々町の野寄(のより)という地名があり、その付近の有力者であろうと郷土史家は述べている。また速来(はやき)の門(と)は針尾瀬戸説もあるが、現在の地形とは大きく変わっていたと思われる早岐瀬戸説も無視することはできない。