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佐世保の歴史
古代の佐世保
2 風土記の世界
同じ佐世保市内であろうと思われている地名に、浮穴郷(うきあなのさと)がある。一説には川棚川上流か波佐見付近ともいわれているが、彼杵郡の北部にあるとなっている。松浦郡と彼杵郡の境がどの付近になるのかよく分かっていないが、現在の山中観音堂や堺木付近という説が、近年の中世の研究で明らかになってきたことから、相浦川か佐々川付近が境界線だったとも考えられる。
地名とともに土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれるヤマト政権に反抗する地方の有力者が、しばしば『風土記』に登場する。速来の村付近にもいたとされ、時の天皇によって派遣された神代直(かみしろあたい)の軍に攻められ、やがて降伏するときに、美しい玉や海藻を献上したと書かれている。
美しい玉は真珠のことと思われるので、佐世保付近のリアス式海岸は、現在でも全国有数の真珠の産地であり、また、ワカメなども豊富なことから、この地方とヤマト政権の関わりが分かってくる。
この時代には駅家制がとられ、彼杵郡に2ケ所、松浦郡に5ケ所設けられている。駅家とは、うまやといわれ、駅馬が政府の決めた道(官道)の大きさによって、20匹、10匹、5匹と準備されていた。
官道の大きさは、まだよく分かっていないが、最近の発掘調査によって、道幅は8〜16mもあったことが推定されている。その官道に郡の役所である郡衙(ぐんが)が置かれていた。松浦郡の郡衙は唐津市の久里(くり)付近、彼杵郡の郡衙は東彼杵町付近であったろうといわれている。したがって当時の佐世保は郡(こおり)の役所などや狼煙台(のろしだい)、駅家が置かれるような中心的な場所ではなく、海辺の人もまばらな地だったのであろう。
地元の郷土史家の研究によれば、松浦郡の大家嶋(おおやしま)や大家郷(おおやのさと)と記録されている一帯や、彼杵郡の北部の浮穴郷、そして健村之里、速来村や落石岑が、辛うじて当時の佐世保を歴史上に残しているといってよいだろう。
その間全く人の住んだ痕跡がなかったわけではない。四反田遺跡や高島遺跡、岩下洞穴や泉福寺洞穴にも須恵器(すえき)や土師器(はじき)も残っており、人々が生活した様子をうかがい知ることができる。やがて中世の動乱期になり、大陸との交渉が行われるようになってくるとき、佐世保周辺の浦や港が輝くような活動の拠点(きょてん)になり、市内のあちこちにその証を残していくのである。それまで歴史上では重要な役割を果たしていない。