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佐世保の歴史

古代の佐世保

5 仏教の隆盛と経塚

 奈良時代から平安時代にかけては、仏教がたいへん盛んになった時期である。仏教は国の信仰として新しい律令制度のもとで保護を受けた。特に天平年間(730〜750年代)に聖武天皇が中心になって仏教を保護し、全国に<国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺を造ることを命じた。また、仏教は人々の間にも民間仏教として広がりを見せた。特に行基(ぎょうき)などのような僧侶が貧しい人々の間に入り、橋をかけたり、池、堀、溝などを造り、社会事業に力を入れたため、人々の間から非常に尊敬され菩薩と尊敬を受けたが、福石観音にも来たという伝説が残っている。
 また、平安時代のはじめには、空海や最澄といった優れた僧たちが、唐の国から新しい仏教の教えを学び、わが国に伝えたことから、さらに仏教が盛んになっていった。堺木(さかいぎ)の眼鏡岩(めがねいわ)にも空海が来たという伝説が残されている。しかし、当時は相次いで起こる天災や飢饉、疫病の流行や盗賊の横行などで、世の中が乱れ始めていた。
 平安時代の半ば過ぎになると、中央では藤原氏が摂関(せっかん)政治を行い、地方の荘園からあがる租税で栄華をきわめ自分たちの権力をほしいままにする貴族政治を行い、地方の政治にはほとんど目もくれなかったため、ますます世の中は荒れていくばかりであった。そのような時の十一世紀の半ば、シャカの死後2千年たつと世は破滅に向かうという末法(まっぽう)思想が流行し、当時の社会の様子が重なりあって貴族や民衆は、心の癒(いや)しを求めていた。
 相浦の飯盛(いいもり)神社経筒(きょうづつ)や広田の三島山経筒、さらに針尾島の明星ケ鼻経塚(みょうじょうがはなきょうづか)から出土した経筒は、当時の人々の仏教信仰を物語る貴重な資料である。経筒は滑石製の筒で、その中にお経を納めて埋納するのが経塚である。長崎県下には現在11ケ所の経塚が確かめられている。その内佐世保には3ケ所の遺跡がある。
 経筒を納めるということは、当時の人たちの間にも仏教が広まっていたことを示すものであり、政治的にもまた、社会的にも混乱するその当時の世の中にあって、人々は浄土の信仰によって死後の世界での極楽を夢見たのかもしれない。平成11年の洞穴・古代遺跡分布調査の際に発見された明星ケ鼻の経筒には、文治5年(1189)の年号が刻んであり、針尾地方の有力者が経塚に納めたものと思われる。これらの3地域に見られる経筒は、当時の拠点の役割を持った場所である。これとて当時の有力な階層の人たちの埋納遺構(まいのういこう)であろう。

図4 肥前国分寺推定迦藍配置図と発見古瓦拓影

写真5 佐世保市内出土の滑石製経筒

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