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宗家松浦氏の本城は松浦定によって、大野の大智庵城が築かれたが、その子政の時の明応7年(1498)平戸松浦弘定(ひろさだ)の攻撃で、落城し政は死を遂げた。その政の弟が佐世保城主松浦諫(いさむ)である。だが、政の救援に諫は向かっていない。
『松浦家世伝』には「定に二男あり、政といい、諫といった。諫は字を源三郎、丹後とも称した。佐世保を領しそれに因んで家号とした。志佐純元(すみもと)の二女を娶ったが、諫の死後尼となり永林(えいりん)と号した。諫は享禄元年(1528)卒し・・・子孫はみるところなく絶えたに違いない」と述べている。弘定には子がなく、弟の純元の子を養子にした。これが平戸松浦興信(おさのぶ)である。したがって諫の妻の永林は興信の妹だったことになり、その関係で身動きできなかったのだろう。諫の居城佐世保城は伝えられるところでは、現在の城山町の国道東側の急峻な山付近といわれているが、また、保立町の西公園も鼻城(はなぐりじょう)といわれた記録があり、ここが佐世保城という説もある。
さらに、佐世保の戦国時代を彩る城主に、遠藤但馬守(たじまのかみ)と赤崎伊予守(いよのかみ)がいる。『印山記』によると平戸松浦氏に支配されるようになった日宇・佐世保は遠藤但馬守に任されている。その娘婿が赤崎伊予守だった。彼は佐世保川を挟んで右岸から矢岳・赤崎方面を支配し、左岸は「いわな口」(佐世保城)の遠藤但馬守が拠っていた。ところが赤崎伊予の助言も聞かず、遠藤但馬が佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に内通したことが、平戸の松浦隆信にわかり、元亀3年(1572)相神浦の九郎親らに、吉岡町で討たれたという。長子の右近(うこん)や二男も討たれている。
江戸時代の元禄期に書かれた瀧川慶覚覚書(けいかくおぼえがき)に「赤崎伊予は佐世保の地侍で、赤崎に屋敷があり、その前の船着を屋敷の前という。崎辺より赤崎・中通村までを知行(ちぎょう)していた。」と記録されている。やがて中通に居館を移し、その後小川内に隠居、所領を松浦鎮信(しげのぶ)に返した後没した。二人の末路は、その後の佐世保の停滞を暗示している。

写真佐世保城跡