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佐世保の歴史
鎌倉・室町時代の佐世保
1 松浦党のおこり
平安時代の半ば過ぎになると、各地方の政治は乱れ、悪いことをする人が多くなってきた。地方の名主(みょうしゅ)や有力者たちは自分の家の子、郎党(ろうとう)、下人らに武器を持たせ土地や家を守るような風潮がおきてきた。これが武士のおこりともいわれている。
そのころ、西九州地方や五島列島、壱岐・対馬付近に、松浦(まつら)党といわれる集団があらわれていた。松浦党についてはよく分かっていないが、佐世保のほか唐津や伊万里、田平や松浦、平戸、それに壱岐や五島列島で活動していた集団で、主に朝鮮半島や中国沿岸との人たちと交易を行っていた。その反面強引な取り引きや、いろんなものを奪うこともあり、そのために大陸沿岸の人たちからは倭寇(わこう)と呼ばれ怖がられていたようである。
彼らが活躍した時期は、源氏と平氏が壇の浦で戦った時、まず平氏側につき、源氏側に寝返った記録がある。したがって十二世紀の末期に、松浦党は歴史上に登場することになる。また、少しさかのぼるが、『小右記(しょうゆうき)』という日記に、寛仁3年(1019)朝鮮北部の女真族(じょしんぞく)が北九州地方を襲った刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)のとき、活躍した前肥前守源知の記録があるが、関係があると思われている。
源姓で一字名を名乗る肥前の国の役人の一族が、松浦地方に住み着き、周辺の山や荒れ地を開墾し、勢力を拡大したのが松浦党の祖先ではないかといわれている。
また、松浦氏は、江戸時代に作られた『松浦家世伝(まつらかせいでん)』という文書によると、嵯峨(さが)源氏源融の子孫である源久(みなもとのひさし)が延久(えんきゅう)元年(1069)に松浦地方に下向(げこう)したというのが、一般的に松浦氏の始まりと伝えられている。朝廷から宇野御厨(うのみくりや)荘園の支配を任され、現在の北松浦郡や佐世保一帯、さらに松浦、伊万里、佐賀県の東西松浦郡に勢力は及んでいたといわれている。
事実、青方文書(あおかたもんじょ)の中には、安貞(あんてい)2年(1228)源直(みなもとのなおし)(久の長男)は源平争乱の前に、清(きよし)、囲(かこう)、披(ひらく)、連(つらの)などに領地を分けたことが記録されている。その清が今福の宗家松浦氏を継ぎ、他の子どもは囲が伊万里の山代(やましろ)、披が田平、伊万里、平戸、連が小値賀などの領地を支配するようになった。また、『家世伝』には、他の三人の子どもも各々領地を貰(もら)い、佐賀の有田や大河野を支配したとの記録がある。清の支配した地域は、今福(いまぶく)、志佐(しさ)、相神浦8あいこうのうら)、佐世保と佐賀の下松浦地方という広い範囲で、鎌倉幕府は領地を安堵(あんど)し、地頭職(じとうしょく)を認めることになった。
図2 松浦一族の系譜
(松浦家世伝より作成)