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佐世保の歴史
鎌倉・室町時代の佐世保
2 松浦党の活動
平氏が壇の浦で滅び、源頼朝が建久(けんきゅう)3年(1192)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉で武士による政治を始めた。これを鎌倉幕府という。全国にいる武士たちは幕府から土地(荘園)の所有を認められ、代わりに将軍に奉公していざというときは、将軍のために戦うという新しい政治の仕組みができた。それらの武士たちは御家人(ごけにん)といわれていた。
松浦党は、中途で源氏に寝返ったことで、所領(しょりょう)を安堵(あんど)され、御家人になって自分の土地を幕府に認めてもらう者が多くなった。特に中国や朝鮮半島との交易で大陸とのつながりを持っていた松浦党は、幕府にとってもたいへん重要な役割を持っていたと思われる。彼らの活躍する機会は二度にわたる元軍との戦いでもいかんなく発揮された。その戦いの様子や、戦いの後に恩賞(おんしょう)(ほうび)を幕府に要求するさまざまな文書が残されている。また、北松浦郡の鷹島の海底でも、元軍の残した遺物が水中考古学の成果で明らかになってきている。
松浦党は惣領(そうりょう)のような力を持つ者が、強力に一族を統率する武士団ではなかったようである。文献によると各地に領地を持つ領主(地頭等)が各々の地名を名乗り、活動していた。しかし、必要のあるときは、松浦党という全体のまとまりのある一揆契諾状(いっきけいだくじょう)を作って同盟を結び、行動を共にしていた。
佐世保の御家人として最初に登場するのは、寛元(かんげん)2年(1244)相神浦家忠(あいこうのうらいえただ)という人である。また、嘉暦(かれき)4年(1329)の文書に日宇(ひう)小次郎入道、針尾兵衛太郎入道覚実(はりおひょうたろうかくじつ)などの名が見え、有力な在地土豪が幕府から、地頭(じとう)の地位を認められている。
松浦党の名がしばしば鎌倉時代に出てくるのは元軍との合戦以後のことである。
文永(ぶんえい)の役(1274年)と弘安(こうあん)の役(1281年)の二度にわたる元軍の襲来は、元寇(げんこう)といわれ、当時の北部九州や西九州一帯に大きな被害をもたらした。幕府も鎮西探題(ちんぜいたんだい)という重要な役所を置き、九州の御家人たちをまとめることにした。また、異国警固番役(いこくけいごばんやく)という仕事を九州の御家人たちに課した。特に、文永の役で元軍の集団戦法に手を焼き、太宰府(だざいふ)付近まで後退して戦った幕府軍は、次の弘安の役までに大規模な防塁を築いていた。また、海戦に備えて軍船の建造もしている。幕府の執権は北条時宗で、わが国が総力をあげた合戦でもあった。
写真1 元軍の残した遺物
(いずれも鷹島町教育委員会提供)