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佐世保の歴史
鎌倉・室町時代の佐世保
3 佐世保周辺土豪の活動
壱岐や対馬を攻撃したあと、博多の攻撃をしかけた元軍四万の東路(とうろ)軍は防塁に阻まれ、上陸を水際(みずぎわ)で防がれてしまった。その上、北九州の御家人たちに攻められ、やむなく壱岐に移動したが、そこでも松浦党からしばしば攻撃をされている。やがて後から来た10万の江南(こうなん)軍と北松浦郡の鷹島(たかしま)や平戸付近で合流した。その間、肥前の御家人即ち松浦党も多くの犠牲を出しながら戦っている。その後7月になって大きな台風が起き、残った元軍も幕府軍に討たれ、全滅状態で元軍は敗れてしまった。
多くの犠牲を出し戦ったことで、松浦党の20数名の御家人たちは代表3名を出して恩賞を幕府に要求している。比志島(ひしじま)文書の中に、相神浦家弘(あいこうのうらいえひろ)、同入道妙連(みょうれん)、同三郎家有(いえあり)など佐世保に関係したと思われる御家人の名が見られる。
元も三回目の日本遠征を計画していた。そのためにさらに西九州の海岸一帯の守りを固めねばならず、御家人たちにはかなりの負担になった。大番役(おおばんやく)という仕事の期間を短くして、御家人たちの不満を和らげようとした。
しかし、不十分な恩賞に対し、彼らの生活が困窮(こんきゅう)し、不満が高まっていった。また、幕府の財政も破綻(はたん)しその滅亡を早めることになり、所領の争いも多くなった。
九条家の荘園だった彼杵庄(そのぎのしょう)でも、鎌倉時代から室町時代にかけて有力な御家人や地頭の所領争いが起きている。その中で鎌倉時代末の頃、日宇(ひう)小次郎入道、針尾兵衛入道覚実、今福四郎定(いまぶくしろうさだむ)、早岐蔵人(はいきくらんど)入道通充、差布源三郎(さしぶげんざぶろう)などの名が文書に記されている。 今福氏は現在の三川内の今福付近の土豪だったと思われる。また、早岐氏はしばしば文書に登場し、幕府に所領のことで訴えを起こしている。鎌倉御家人として現在の早岐町周辺地域を支配していたようである。
日宇氏は多分、現在の日宇町付近を支配していた御家人だったと予想されている。その他、針尾氏は江上(えがみ)、小鯛(こだい)、大村の鈴田の領主となっている。
勢力の強かった領主として宮村氏がいる。宮村諸次郎通兼(みちかね)の名や宮村彦次郎入道などの名が文書に出てくる。現在の宮地区の宇都宮(うつのみや)氏との関連が推定されるが、御家人だったと思われる。残念ながら差布源三郎については詳しくは判っていないが、佐世保の土豪の一人であったようだ。佐世保周辺の松浦党や土豪たちの文書はそれほど多くないが、一部に争いの文書が残っている。
写真2 蒙古襲来絵巻上巻〜鎌倉時代
(肥前と高麗より)