hyousi_mark_mark_s.jpg (6168 バイト)

佐世保の歴史

鎌倉・室町時代の佐世保

4 海の交流と交易

 平安時代半ば過ぎから鎌倉時代・室町時代にかけての佐世保周辺の海人集団(松浦党など)が、朝鮮半島や中国各地との交流を示すものとして、市内の浦々や小高い丘陵や居舘跡と思われる所に、大陸製の青磁(せいじ)・白磁(はくじ)、南方系の陶器のかけらや滑石製の石鍋、宋銭や明銭などが多量に残っている。それらの遺構は相浦川の竹辺(たけべ)付近一帯や針尾島の江上支所裏の北谷付近・貴船(きふね)神社付近一帯の二大拠点に、十一世紀半ばの宋代の青白磁や十二世紀後半から十三世紀初頭の陶磁器が集中する。しかも遺構はかなりの期間人々が住んでいたと推察される。また、分析の結果、中国製の陶磁器が多く、高麗(こうらい)製の青白磁は少ないことが分かった。初期の倭寇(わこう)の時期と重なる傾向もあるが、それを断定するまでの資料はない。相神浦氏や針尾氏など有力な地頭御家人層の一団が海を渡って交易をする港や居舘だったのだろう。
 かつて大陸との交流に生命をかけ、荒海に乗り出した海人の集団が、佐世保周辺にいたことを証明している。
 中国の陶磁器は、宋・元代の龍泉窯(りゅうせんがま)系の青磁や明代の景徳鎮(けいとくちん)系白磁、朝鮮の高麗(こうらい)青磁片などが表採されている。青磁は古く中国の漢代から浙江省(せっこうしょう)に始まり、宋元代に全盛期を迎えた青い釉(ゆう)のかかった世界的な焼き物で、主産地は浙江省である。やがて十世紀になると朝鮮半島でも焼かれた。特に龍泉窯系のものが著名である。白磁はガラス状の硬い白色の素地に透明の釉薬(ゆうやく)をかけ、焼かれた磁器(じき)である。宋の代に全盛期を迎え、後に朝鮮半島に伝えられた。しらはにと呼ばれ上流社会の人たちに好まれ、有力な土豪や大名たちは、競って美しい陶磁器を求めるようになった。相浦や針尾島の有力海人集団も、海外との交易でこれらの陶磁器を得たものと思われる。
 特に、南北朝時代(1338〜1392)になると中央の政治が混乱し、九州の武士団も抗争を繰り返した。そんな中で十四・五世紀になると、中国の明王朝や朝鮮の李氏王朝が成立し、倭寇の略奪(りゃくだつ)行為に困ったことから再三にわたってその取締りを幕府に要求している。勘合貿易(かんごうぼうえき)(1404年)が始まり、朝鮮との歳遣船貿易(さいけんせんぼうえき)(1443年)が行われ始めた。私貿易が禁止され、倭寇の取締りが強化されると、次第に略奪などを伴った交易が行われなくなった。
 しかし、公の貿易は盛んになってはいったが、半面ひそかに交易をする一団もいたと思われる。

図5 中世の陶磁器産地

図6 佐世保周辺の採集青白磁器遺物編年
(太宰府教育委員会 中島恒次郎氏作成)

6