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佐世保の歴史

鎌倉・室町時代の佐世保

5 松浦党の一揆契諾状と彼杵一揆連判状

 元寇後に幕府は急速に衰え、御家人たちの生活は困窮し、幕府に不満をもつものが各地に現れた。荘園や公領では、土地を奪われたり、土倉(どそう)や酒屋(金融業も兼ねる)などを襲うものも現れた。不満の御家人や悪党(あくとう)といわれる集団が幕府を倒す運動を起こした。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を中心とする勢力が力をつけ、遂に元弘3年(1333)足利高尊氏(あしかがたかうじ)(後の尊氏)や楠木正成(くすのきまさしげ)など有力武将らの活躍で鎌倉幕府は滅亡した。
 こうして後醍醐天皇を中心とする建武(けんむ)の新政が行われることになった。しかし、恩賞が不十分だったこともあり、当時の武士たちの不満を買い、わずか3年で崩れ、暦応(れきおう)元年(1338)足利尊氏は光明(こうみょう)天皇を立て、室町幕府を開いた。後醍醐天皇は吉野に逃れてそのまま政治を続けたことから、南北朝時代といわれ、約60年間武士たちが二つの勢力に分かれて争いが続いた。
 九州でも同様に北朝、南朝方に分かれて在地の武士団(国人(こくじん)・土豪(どごう))が抗争を展開した。松浦党もその中に巻き込まれ、南朝についたり、北朝に寝返るものもいた。
 困った北朝方の今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、松浦党を味方につけるため『松浦党一揆契諾状(まつうらとういっきけいだくじょう)』を結ばせている。応安6年(1373)から63年間に9回にも及んでいる。これは一族(松浦党)は約束を守り、一致して行動をとる盟約であった。永徳4年(1384)の契諾状には佐世保に関係のある国人の名が見える。ひう越前守純、たんこ左衛門遶、あいのうら鬼益丸代、あいのうら能登守超、させほ石見守元、させほのいまふく左京亮などである。
 また、『彼杵一揆連判状(そのぎいっきれんばんじょう)』が同じころ延文(えんぶん)5年(1360)から52年も存続し、数回結ばれ、お互いに協力し結束している。その中には上図のような名が連ねられており、佐世保の宮や早岐付近の国人層の活動があったと思われる。例えば早岐氏、針尾氏、折宇瀬(おりうせ)氏の名のほか、宮村氏から宮村駿河守通景など五名が連ねられている。通景の跡を継いだのは宮村能登守通定だが、彼は小峰城を築城し、蓮輪館(はすわかん)を造ったとされている。しかし、その後一族に内紛が起き滅亡している。
 これらの武士団が南北朝の争乱に加わっていたことは、そのまま当時の農民や漁民の生活にかなりの影響があったと思われ、やむなく彼らは倭寇として朝鮮半島や大陸沿岸を荒らし回ったと思われる。そのため、大陸沿岸は極度に荒廃することになった。

図7 松浦党一揆契諾状

図8 彼杵一揆連判状

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