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佐世保の歴史

鎌倉・室町時代の佐世保

6 石に見られる佐世保の中世

 石造物(せきぞうぶつ)とは一般的に、石で造られた古代・中近世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔(ごりんとう)などの墓や板碑(いたび)、経筒(きょうずつ)などをいう。その石がどこの原産地かを調査していくと、当時の社会や交易の様子を読み取ることができる。
 市内での石塔(せきとう)の分布を見ると、時代によって分布とその形式が複雑になり、相浦川流域や俵ケ浦半島の北部地区と佐世保市内の中心部や日宇地区と早岐・三川内・宮・針尾など南部地区ではかなりそれが異なっている。
 特に、相浦川流域は、松浦一族の争いになった地でもあり、十四世紀から十五世紀にかけての石塔が複雑に造営されている。鎌倉時代から南北朝時代の混乱期、さらには戦国時代の戦乱期に、ある時は佐賀の勢力や周辺の土豪層の一揆契諾や、連判などの結びつき等が、製塔まで影響を与えている。その中で武辺城(たけべじょう)及び中里周辺には約130数基もの石塔が残されており、大きな勢力の範囲を感じることができる。
 相浦川中流域の大野周辺は、医王寺(いおうじ)跡石塔群をはじめ、大智庵城(だいちあんじょう)周辺や称妙寺(しょうみょうじ)、妙観寺(みょうかんじ)跡などにも多数の石塔が造られており、平戸松浦氏と宗家松浦氏の争乱、他の勢力との交流などからもこの周辺で、多くの寺院や墓地が営まれていたと思われる。特に、称妙寺石塔群は93基も残されており、県北でも最大級の石塔群である。
 俵ヶ浦(たわらがうら)半島にもかなりの石塔群が確認されているが、俵ケ浦馬込(まごめ)で発見された福井県の日引石(ひびきいし)製作の十四世紀末の五輪塔の水輪(すいりん)は、日本海経由との交渉が行われていたことを示している。このように海を生活の糧とした集団(松浦党)が広い範囲で交易をしていたのであろう。
 中心部にはあまり石塔は残されていない。最大のものは福石観音石塔群だろう。約50基が確認されている。庶民の信仰の場でもあり納得させられるものがある。
 南部地区では、針尾島の指方(さしかた)・江上(えがみ)でも中世居館跡や遺構があり、そのため多数の石塔が残ったのであろう。日宇・早岐・広田・三川内方面も大村氏との争いがあった地域であり、戦国期の土豪や有力者の石塔群が残されている。宮地区も宮村氏の居館や戦国時代を彩る戦いの激しさをみる石塔が残っている。
 市内の石造物は、多地区に比べ複雑な様相を示しており、これらを通じて日本海や他の海上ルートを使った中世の海人集団(松浦党)が、輝いていたころの姿を垣間(かいま)見ることができる。

図9 宝篋印塔   図10 五輪塔

図11 佐世保市内の石造物分布

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