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佐世保の歴史

戦国時代の佐世保

1 佐世保の中世山城

 元中(げんちゅう)9年(1392)足利義満の代に南北朝が合体した。そのころ各地には、将軍から任命された守護がそのまま任地にとどまり、任地を自分の領国にし、国人・土豪を支配して守護大名として君臨するようになった。幕府の権威はなくなり、各地では守護大名(しゅごだいみょう)が互いに争い、長い戦をするために農民たちは苦しんだ。
 特に、応仁(おうにん)の乱(1467〜1477)後は、全国各地で争いや戦いが続き、以後の約100年間を戦国の世という。また、下克上(げこくじょう)の世ともいわれていた。
 佐世保を含む松浦党の勢力範囲内では、全体を取りしきる強力な宗家(総領家(そうりょうけ))がいなかったといわれているだけに、親戚や兄弟間でも所領のことで争いが絶えなかった。また、佐世保周辺には大村氏や有馬氏、少弐氏、大内氏などの有力な大名たちが、互いに勢力争いをしていた。いきおい佐世保に住む土豪や小領主たちもこれらの有力大名と姻戚関係を結び、自分たちの所領を守らざるを得なかったと思われる。
 当時の佐世保にはかなりの中世山城(さんじょう)や居舘(きょかん)跡があったらしく、その遺構が残っている。また、地名や小字(こあざ)から山城や砦(とりで)と関わりのあると思えるものも少なくはない。
 特に相浦川や佐世保川、小森川など川を跨いだ箇所に築かれたり、俵ケ浦半島や針尾島などにも多く残されているようである。中世の城跡を示す文献が少ないことから、考古学的な手法による調査や朝鮮半島や中国の青白磁の散布地(さんぷち)などを参考にすべきだろう。佐世保城、赤崎城、鼻繰(はなぐり)城、飯盛城、武辺城、大智庵城、指方(さしかた)城、広田城、早岐城、井手平城など数十ケ所にのぼるという。その中で特筆されるのは中里にある武辺(たけべ)城と相浦の飯盛(いいもり)城や大野の大智庵(だいちあん)城、三川内の井手平(いでひら)城であろう。
 戦国時代に力を持つ有力な土豪たちは、佐世保やその周辺のように実り豊かな穀倉地帯を持っていなかったことから、いきおい海外との交易で生活を維持していくか、お互いに同盟を結んで戦うしか手段がなかったと思われる。この時期の倭寇(わこう)は、日本人よりも大陸で苦しんでいた貧民や漁民たちの海賊集団が多かったとされており、その中で3,000人もの配下を持っていたといわれ、平戸松浦氏の庇護を受けた王直(おうちょく)などの存在は、南北朝時代の倭寇とは違った一面を覗(のぞ)かせていた。当時のわが国も同様な不安定な面を持っていたことで、一部とはいえ後期倭寇として大陸沿岸の人々に恐れられていたと思われる。

図1 佐世保の中世城館の分布

図2 倭寇の活動範囲
(肥前と高麗より)