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佐世保の歴史

戦国時代の佐世保

2 宗家松浦氏の佐世保進出と興亡

 松浦の今福にいた宗家(そうけ)(惣領家)松浦氏は十五世紀半ば十三代盛(さかり)の時代に武辺に城を築いたとされているが、これまで城の位置がはっきりしていなかった。郷土史家から現在の古城山の先端部付近とか、地名から武辺の辻付近などの説が唱えられていた。また、四代遶(めぐる)の時代に築城されたという文書もある。
 しかし、市教委により平成6・7年に古城山と呼ばれていた武辺城跡の発掘調査が実施され、本丸跡と思われる箇所から7棟分の建物遺構と備前(びぜん)陶器、中国・朝鮮製の陶磁器が多数出土したことで、ここが武辺城跡と推察される。備前焼は瀬戸内海を通ってもたらされ、朝鮮製の陶磁器は盛が行った朝鮮との歳遣船貿易(1457)との記録とも一致する。盛の宝篋印塔(墓)は中里の東漸寺(とうぜんじ)にあり、一族の墓は相浦や中里周辺に見られる。
 また、盛は同じ中里の新豊寺(しんぽうじ)を創建し、巨鐘を寄進したという記録がある。十五世紀後半盛の子十四代定(さだむ)のころになると、平戸松浦氏との関係が次第に悪くなる。延徳2年(1490)定は瀬戸越に大智庵城を築いたといわれる。定の墓は旧阿弥陀寺跡にある。やがて定の跡を継いだ十五代政(まさし)は、平戸の松浦弘定(ひろさだ)・興信(おさのぶ)父子に攻められ明応(めいおう)7年(1498)大智庵城は夜襲にあい落城、政はあえなく討たれてしまう。この時代後ろ楯の少弐(しょうに)氏の勢力が次第に低下する中で、庶流の平戸松浦氏は周辺の土豪を抑え、海外との交易を盛んにし、王直などの支援で急速に力をつけていたのであろう。
 政の子幸松(こうまつ)丸と、少弐氏から嫁いできた母南殿は平戸に幽閉された。幸松丸は、やがて政の旧臣らに助けられ、有田の唐船城(とうせんじょう)で成人し、後に松浦丹後守親(ちかし)と名乗り、佐賀の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)に平戸との和解あっせんを頼み、弘定と和解が成立した。また、叔父の少弐資元(すけもと)のはからいで享禄(きょうろく)4年(1531)今福・有田・相神浦の旧領を回復したのである。同時に少弐氏から五郎鎮(しずむ)を養子に迎え、天文4年(1535)ころ相神浦に飯盛城(いいもりじょう)を築いた。
 その城がどこにあったかは定かではないが、現在の木宮神社付近だったといわれている。宝永7年(1710)に書かれた『印山記』によると、飯盛城は『高いといえば雲に聳(そび)えるようであり、後は古木が生い茂って陰を作り、東は岩石、麓は大河、西は青い海が満々としており、そのほかには堀に水をたたえ、香椎川、西方寺口の辺りまで、要害厳しく云々』と述べている。

写真1 武辺城と飯盛城周辺

写真2 武辺城 本丸跡の柱穴
(武辺城跡発掘調査報告書より)
図3 大智庵城古図
(佐世保のあゆみより)