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佐世保の歴史

戦国時代の佐世保

3 宗家相神浦松浦氏の衰退

 山口の大内氏を後ろ楯とする平戸松浦氏は、大内氏が少弐氏を太宰府から追い滅ぼしてしまうと、丹後守親との対立が再燃することになった。親は島原の有馬晴純と協力関係を結び、養子に五郎盛(さこう)を迎え平戸方に備えた。
 天文11年(1542)平戸の松浦隆信は勢力の拡大をはかるため、周辺の小領主を味方にして相神浦の飯盛城攻めを開始した。しかし、合戦原で平戸方は敗れ、城兵の抵抗も強かったため、飯盛城は容易に陥落しなかった。双方とも被害を受けるものが多く、城下は家を焼かれ、農民が苦しんだことから、有馬氏の仲介で和睦を結び鷹島を隆信に譲り、2年にわたる長い戦は終わった。
 一見平和になったかに見えた相神浦も、この頃、勢力を増大させ、周囲の有力大名を支配下においた龍造寺隆信に有馬氏が敗れ、後ろ盾を失うと、永禄6年(1563)再び平戸方の松浦隆信(たかのぶ)・鎮信(しげのぶ)は飯盛城の攻撃を開始した。新式の鉄砲や石火矢(いしびや)も使用され、海陸からの攻撃もあり、城兵や周辺の人々もたいへん苦しんだ。
 しかも、この攻撃は執拗(しつよう)をきわめ、兵糧(ひょうろう)攻めをするかたわら、城にひいてある水を止めたり、農民の生命でもある水田の稲を焼いたり、住居を焼いたり、乱暴を重ね相神浦方が大変苦しんだことを、平戸松浦氏の『印山記(いんざんき)には記録してある。何者かが大きな椎木を削って、次のような歌を書いたという。
 『人は皆 四月五月に田をうゆる   宗作ばかり春うえをする』
 宗作というのは相神浦方の連歌師の手光(てびか)宗作のことで、そのころ、米糠(こめかす)ばかりを食べて飢えをしのんでいたらしい。そのことを皮肉って書かれたのであろう。
 さらに、相神浦の多くの侍や民は、飢えて死を待つ状況だったとも述べている。丹後守親はこのことをかなり気にしていたと思われる。
 また、この戦いの最中に、松浦隆信と武雄の後藤貴明(たかあき)(大村氏から出された養子)との間に同盟関係が結ばれた。松浦隆信の三男惟明(これあき)を後藤貴明の養子にし、貴明は佐世保・日宇・早岐・指方の四村を隆信に譲った。このため松浦親の飯盛城は、周辺から孤立することになった。
 やむなく松浦丹後守親は、平戸の松浦隆信の次男九郎親を養子に迎えて、和解をすることにした。有馬氏からきていた五郎盛を有田の唐船(とうせん)城に住まわせ、少弐氏からの養子鎮は菰田(こもだ)に住まわせたといわれている。

図4 相神浦松浦:平戸松浦領土の推移
(わたしたちの佐世保より)

表1 戦国期の動き年表