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佐世保の歴史

戦国時代の佐世保

5 平戸松浦氏の領国支配確立

 宗家(惣領家)の松浦氏は、こうして平戸松浦氏の支配を受けることになったが、全ての家臣たちが納得したものではなかったようである。特に、唐船城にいた五郎盛は不満を持ち、有馬氏や波多氏を誘って元亀2年(1571)正月20日、相神浦方と平戸方の連合軍と柚木の相当原(そうとうばる)で合戦を行い敗れている。この合戦はかなりの激しい戦いだったようで親子、兄弟が敵味方に分かれて戦ったと『印山記』に詳しく記録してある。
 天正12年(1584)九州の五ケ国を支配していた龍造寺隆信が島原の沖田畷(おきたなわて)戦いで、有馬・島津の連合軍に敗死するとそれまでの均衡が破れ、再び領土争いが始まった。松浦氏と大村氏の境が早岐や三川内付近だったことから天正14年(1586)大村純忠と有馬、波多、有田の連合軍が松浦氏の出城である三川内の井手平城を攻めた。城主の岡甚右衛門以下城兵のほとんどが討死にし陥落した。広田城でも戦があったが、激しい戦いの末、大村勢は退却している。井手平城の発掘調査で、明の染付と青白磁、土師器、鉛製の弾丸や鉄鏃(てつぞく)が出土し、激しい戦いを物語っている。井手平城で討死にした家臣を弔うため松浦鎮信は薬王寺(やくおうじ)を建立した。また、これらの合戦で活躍した家臣には恩賞を与えた。写真4は薬王寺境内の城兵の供養塔(くようとう)である。さらに松浦鎮信はこの機会を利用して大村領内の彼杵(そのぎ)城まで攻めたが、大村方の抵抗に合い、佐々加雲(かうん)などの有力な武将を失っている。
 平戸松浦氏と大村氏は境目をどこにおくかということで、話合いを何度か重ねている。特に古くから早岐や宮村、折尾瀬(おりおせ)付近はあるときは大村氏の側になったり、平戸氏側になったりしていたことから交渉は難航した。しかも加えて佐賀方との境目をどうするかも課題であった。
 天正14年(1586)の10月3日、重尾(しげお)峠で会談が行われた。大村方の大村与市は旧領の早岐を返すことを主張、平戸方の長崎主膳は川棚を境にしようと要求し、両者の主張が並行してまとまらなかったが、両者が会談をしている重尾(しげお)峠(舳(へ)の峰(みね)峠)をもって境目にすることを決定した。天正15年(1587)6月、豊臣秀吉の九州平定後の国割で平戸松浦氏も所領安堵(しょりょうあんど)され、こうして佐世保・日宇・針尾は平戸領として最終的に確定したのである。
 その後、秀吉の全国統一の中で、近世大名として平戸松浦氏は、県北一帯の支配を確立し君臨するのである。

図6 井手平城跡
(井手平城発掘調査報告書)
図7 井手平城出土の遺物

写真4 薬王寺供養塔
写真5 舳の峯番所跡