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佐世保の歴史

江戸時代の佐世保

1 平戸藩の中の佐世保

 戦国時代が終わり、世は織田、豊臣から徳川の時代へと大きく変わったが、外様大名平戸松浦氏はもとの領地を安堵されたまま270年間、平戸領の支配を続けた。
 慶長9年(1604)、藩主松浦鎮信が幕府に届け出た平戸藩総石高(朱印高)61,700石の中で、佐世保地方はどうであったか、抜き書きしてみよう。
 「相神浦村高6,881石。黒島村20石余。高島村高三31石余。佐世保村高1,369石余。日宇村高957石余。早岐村高3,345石。針尾村高578石余。佐志方村高408石。」
 藩政のはじめ、相浦川沿いは相神浦村で、6,800石余の大きい村だった。南部では早岐村が、後の折尾瀬村や広田村を含む3,300石余の村で、その間に佐世保村と日宇村が、馬氏(うまうじ)川という今の戸尾交差点辺(あた)りにあった川を村境としていた。宮村は大村領にはいっていた。
 江戸時代のはじめ、平戸は海外貿易が盛んで藩も大きな利益を得ていたが、島原の乱がおこり、オランダ商館が長崎の出島に移され領国が完成すると、平戸の貿易による利益は失われた。藩財政は農村からの年貢収入にたよらざるを得なくなった。そのため、この時代には新田開発が盛んに進められた。また年貢増徴のため、明暦(めいれき)の領内総検地が行なわれ、今日の田畑の基本台帳にあたる田畑清帳(せいちょう)が作成された。その結果、実高104,895石が打ち出された。
 田畑清帳につけ出された農民には、その石高の4割(四つ成)を物成(ものなり)(年貢)として納入するという原則が確立された。この改革を担当したのが、山本甚左衛門(霜木)である。その山本霜木が残した覚書の寛文4年(1664)書き出し、佐世保地方の石高は上表の通りである。なお家数や人口も次のように記録されている。
 「相神浦村六六二軒、三二三八人。賎津(しず)浦一〇九軒、四六三人。佐世保村一四一軒、六四三人。佐世保浦四九軒、二〇二人。日宇村一六二軒、七四五人。早岐村三二五軒、一七三三人。早岐浦一六三軒、七〇四人。三川内皿山二九軒、一三九人。木原皿山二一軒、九一人。針尾村一二一軒、五七八人。針尾浦四八軒、二三八人」  藩政が整備されると、佐世保村や早岐村などの村方は、郡代、代官の支配下になり、佐世保浦や早岐浦は無高で船奉行、浦目付の行政下にはいった。三川内三ヶ皿山には別に皿山代官がおかれた。

図1 元禄12年(1699)佐世保浦絵図
(松浦史料博物館所蔵)

図2 佐世保地方の石高と村名

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