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佐世保の歴史
江戸時代の佐世保
2 佐世保地方の古絵地図
江戸幕府は国内統治の必要から、各藩に対し4回ほど国絵図と郷帳の提出を命じている。平戸藩のものは、その3回分が、平戸の松浦史料博物館に、展示または保管されている。現存するのは慶長・正保と元禄の国絵図である。
正保2年(1645)、平戸藩がつくった国絵図には、「正保二年領内絵図、但佐賀へ指し出され候控(ひかえ)」と書かれている。この絵図には小判形の枠取りの中に、小さな村の村名と石高が記入されている。例えば、「日宇村高五百拾八石余、福石村高三百三石余、魚浦村(いおのうら)高六拾八石余」と日宇村を三つの支村に分けて記入し、本村の所に付せんが付けられて、小さな支(枝(えだ))村ごとに石高を記入するのは佐賀の絵地図に倣(なら)うという意味のことが記入してある。この絵図は正確さには欠けるが、新田開発があまり進んでいない十七世紀前半の様子が描かれている。
相浦川の河口を見ると、愛宕山の麓まで海であり、小野浦、母が浦、日野浦は深い入江になり、「湊(みなと)悪(わるし)」と記入してある。佐世保港では赤崎湊悪、立神近くではビワノ浦湊悪とあり、佐世保川口にはヨコシマなどの島がある。当時良港として使用された所に田原浦(俵浦)があり、藩主が長崎勤番の帰りに、この浦で船中泊した記録が残っている。「タワラノ浦 入三百四拾間 内七十間は遠浅 横二百二十間 深九尋 西北風船繋吉(ふながかりよし)」同じように長崎舟行の時に使用された針尾島の鯛ノ浦は、「入二百四拾三間 横三百間 深八尋(ひろ) 南北東風船繋吉」とある。
元禄12年(1699)の国絵図になると、相浦川口に新田堤防が見え、相神浦村新田枝村として川下(かわしも)村(高818石)・母ケ浦村、日野村が生まれている。山口村は相神浦新枝村として出現している。早岐浦も早岐川から小森川の間が干拓され、堤防の上を平戸往還が通されて、そこに市場新田の名称が記入されている。干拓から半世紀もたたないが、市が立ち常設の店が出来はじめていたのであろう。
早岐瀬戸はまだ広く、「み嶋」は陸続きになっているが、「小嶋」は島のまゝで、現在の小田新田の所は鳥越の近くまで深い入江で「うちどゐの浦」とある。 佐世保市街地の中心は相生、浜田町辺と名切グランド附近まで入江で、島地岳の前には横島があり白南風の山の前面に「いゝひつ嶋」という小嶋が見える。
図3 正保2年(1645)平戸藩国絵図
(松浦史料博物館所蔵)
図4 元禄12年(1699)平戸藩国絵図
(松浦史料博物館所蔵)