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佐世保の歴史

江戸時代の佐世保

4 三川内古窯跡の発掘から 三川内焼の始まり

 佐世保は世界最古の土器を生み出した土地であるが、再び歴史のうえで焼き物に関わるのは近世に入らなければならない。三川内焼である。
 文禄・慶長の役と呼ばれる十六世紀末の秀吉の朝鮮侵略は、内外の人たちには不幸なできごとであったが、佐世保地方では幸いであった。派兵に動員された大名のうち、唐津の波多三河守は秀吉の勘気に触れて改易される。波多氏の庇護下にあった岸岳の朝鮮灰釉(かいゆう)系の陶器集団は離散し、伊万里、西有田、有田、波佐見、そして佐世保にも数ケ所に窯を開いた。これが岸岳崩(くず)れ(文禄2年:1593)であり、三川内焼の始まりとなった。
 佐賀県西有田町の近くで、県境にある木原町の葭の本(よしのもと)窯は、その離散陶工によって開かれたと伝えられる。柳の本窯や新行江(しんぎょうえ)町の牛石(うしいし)窯も同じ時期に開かれる。いずれも唐津系陶器をもっぱら焼いた。
 慶長3年(1598)に朝鮮の役が終わり、西国大名の一部は帰陣に際して朝鮮の陶工を伴ってきた。平戸藩主の松浦鎮信とともに来日したのが巨関(きょかん)たちである。これがもう一つの三川内焼を起こす人たちである。 藩窯と民窯 三川内焼は藩直営の藩窯(官窯)と民窯からなる。民窯は葭の本窯を最古とする日用雑器を焼いた窯であり、陶器に始まり十七世紀の中頃には磁器に転換する。葭の本窯の閉窯前後に開窯した木原地蔵平(きはらじぞうびら)窯は、東窯の物原(ものはら)(失敗した焼き物を捨てた場所)の最下層から絵唐津(えがらつ)系陶器が出土する。磁器はその上層で出現し以後はこれが主体となる。それに続くのが西窯である。
 藩窯は最初から磁器、つまり白磁(はくじ)を下地として呉須(ごす)による染付を作る。第一期の藩窯は平戸島の中野窯であったが、第二期の藩窯が置かれた三川内山の長葉山(ながはやま)窯は、葭の本窯に続く唐津系の民窯であった。巨関とともに来日した高麗媼(日本名中里エイ)が元和8年(1622)が開いた窯で、発掘調査の結果、一号窯物原の最下層から唐津系の陶器が出土している。その上層の五層から磁器が見出され始めるが、およそ1640年代頃のものだと推定される。後述する今村三之丞の三つ岳白磁鉱の発見(1633)や、三川内皿山代官兼棟梁に任命(1637)、皿山役所の設置(1642)がされるなど、磁器生産に向けて技術者集め、二号窯の開窯が始まることを考えれば、1640年代が藩窯整備期と思われる。さらに、十七世紀後半には第三期の藩窯である三川 内東窯そして十八世紀以後は三川内西窯が築かれるが、ここも民窯と藩窯の寄り合い(共同)窯であった。
 昭和49年調査の江永古窯はA・B・Cの3窯からなり、C窯が最古である。日用雑器を多く生産し、染付磁器や刷毛目(はけめ)陶器が出土する。B窯では刷毛目が中心となり、A窯では陶胎染付(とうたいそめつけ)などを焼いている。木原からの分窯は天和3年(1683)であるが、開窯期の最古染付碗が同じ時期でもあり、発掘調査でも裏づけられる。
 平成13年に実施された平戸藩御用窯第二次調査において、代官所跡とされる三川内御細工所(藩窯の工房)の棟梁を代々勤めた今村家の屋敷跡から藩窯の作品群が出土した。これまで謎であった中野窯以降の御用窯作品が明らかになった。それは有田南川原の柿右衛門様式の皿や碗類であり、さらに色絵も有田で1647年に最初に作られ、わずか十数年のうちに三川内でも作られていたことが分かった。
 藩窯の製品は献上品や贈答用、あるいは藩の調度品のために作られている。それは三川内焼全体では採算を度外視した高級品であるが、極めて少数であった。三川内焼四百年の歴史では一貫して日用品を生産していた。

図6 三川内周辺の古窯

写真3 三川内皿山の発掘風景

写真4 発掘された三川内焼出土品

 

 

 
 

 

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