hyousi_mark_mark_s.jpg (6168 バイト)

佐世保の歴史

江戸時代の佐世保

6 村に住む人々

 郡方仕置帳に「本百姓の外、脇間者並に扶持放しの脇間者、屋敷取、その外足軽、中間」とある。村方には百姓の外に色々な階層の人々がいたことが分かる。
 山戸家文書には、折尾瀬村の「人家惣高書出帳」が、嘉永2年(1849)から安政6年(1859)まで、安政4年を除いて10年分がそろっている(表1)。それは折尾瀬村(今の三川内地区)の人口と家数の調査であるが、内訳には村内に住む人々を五つに分類し、その人口を書き出している。
 安政6年を例にとると、総人口は2,139人。戸数は444戸で一戸当り4.8人。これは三ケ皿山420人(265戸)は含まない数字である。
 その内百姓が969人(217戸)で総家数の49%。従って村の人口の半分以上は諸士給人・山伏・脇間・又者という百姓以外の人々であったことになる。平戸の『手鑑(てかがみ)』という文書を見ると、佐世保の他の村々でも同様である。百姓以外の人々といっても、ほとんどが普段は農業に従事していた。
 百姓は物成といわれた年貢を負担する大切な人々であ った。給人や村役人によって使用されたり、農業の妨げになることを防ぐ条文が、村方の法令にはよく出てくる。
 百姓の内作牛を持たない者には、牛買い入代銀は無利子で貸す。百姓家が古くなり建替たり、火災や風水損の時、竹木はもよりの山より手渡す。百姓朝夕の薪・鎌伐の分や茅(かや)山の伐り取りは勝手次第。百姓屋敷は三畝(せ)拾歩(100坪)を一屋敷とすることなど定めていた。
 平戸藩の家臣である諸士・給人のうち上級、中級の家臣は平戸城下に住んだ。地方に住んだ地方給人は役馬廻(やくうままわり)・中小姓・徒士(かち)・弓組・足軽などで、徒士以上は踏絵(ふみえ)御免であった。
 貞享(じょうきょう)以後は100石取り以下は蔵米取(くらまいど)りにしたといわれているが、平均して4反ほどの給地が、新田畑の内から給されていた。折尾瀬村には40人余の給人がいた。それらは皿山代官・木原番所の番人、境目付・山守などの役職をもち、20人ほどは皿山御細工人であった。
 脇間(わきま)は足軽と百姓の中間に位置する人々で普段は農業に従事し、必要に応じて公的な仕事を手伝った。郡方仕置帳(こおりかたしおきちょう)に「在々耕作にて渡世する脇間者」「商(あきない)たより又は細工仕(つかまつ)り耕作仕まつらざる脇間」なども出てくる。
 又者(またもの)は「又家臣」、陪臣(ばいしん)、被官(ひかん)で人内(ひとうち)ともいわれた。 表1 折尾瀬村人口  「山戸家文書」人数惣高書出張による。※申年田畑高掛家掛銀米割方元帳による。

表1 折尾瀬村人口

図7 平戸藩 相浦神筋の仕組

c16789101112