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佐世保の歴史
江戸時代の佐世保
9 平戸往還と海上交通
文化10年(1813)の正月、伊能忠敬(いのうただたか)は第八次測量のため相浦賤津(しず)浦の内山六右衛門宅にいた。暮の29日から正月3日までの6日間、正月祝いのため測量を休み、69歳の体調をととのえた。その時、
「七十に近き春にて相浦 九十九島をいきの松浦」 と詠(よ)んでいる。
伊能忠敬の平戸領測量は、早岐浦を起点としてはじまっている。それは文化9年(1812)、12月8日であった。朝六ツ頃(午前7時頃)宮村を出発した一行は、ハウステンボスができている赤子浦一帯を測量し、早岐瀬戸を北上、午後は平戸領の広田村の大手原(おおてばる)塩田で打ち止めにして、早めに早岐浦の止宿地に到着した。
本陣は町年寄の福田利一郎宅、別宿が村山紋十郎宅であった。平戸藩は内科・外科2人の医師を派遣し、藩主 より鯣(するめ)一折を贈る気の配り方であった。
平戸往還の中で宿場がおかれたのは、江迎・佐々・中里・佐世保・早岐であった。この中で早岐浦には藩主の宿泊所である本陣をはじめ、脇本陣・問屋場・札場・宿屋などがあった。また押(おさえ)役所や代官所もあり、浦には町年寄や浜使などの浦役人もいた。往還ぞいには奥行の深い町屋が建ち並び、駅馬も用意されていた。日記には西町、播磨町、戸ノ上町、田中町などの町名も記録されており、地方随一の宿場町であった。小森川には27間(約50m)の大橋がかけられていた。
忠敬の測量は海岸線を中心に行われ、街道は海辺の地で交叉できるよう、海辺の地から前後しながら測量されている。図13は日記の中から平戸往還測量の部分を抜すいしたものである。
早岐浦は堤防が街道になっており「右に一里塚、塚の上に名松あり」とある。この一里塚は現在のファーストイン早岐(ホテル)の所である。
12月19日、大村領との境舳ノ峯番所から、平戸往還を北上している。舳(へ)ノ峯を「口留番所」としているのは、その時の役割を、表現している。口は人々のことであろう。矢石は「矢通し石」で、牛の巣城は、広田城で、古くは牛盗城ともいわれた。
12月21日、早岐浦を出立。徳丸から上ヶ倉は現在も往還のイメージを残している所である。田ノ浦では新田が開発されて、海浜の地に出られたのである。この 日は日宇村の本村が打ち止めで○印を残す。
続きは12月28日2手に分かれた坂部隊による測量である。○印より始め、日宇枝村福石村の木風から幅3間の福石川を渡り、茶屋ノ坂を登った所に籠立場(かごたてば)、白南風小学校の上に大野(ううの)の堤があって、この附近が大野の馬宿だった。峯の坂を下り、裁判所のあるハジ山を通り、名切の浜田新田を横切り谷河原(たにごうら)(谷郷)から佐世保庄屋下と測量を進めている。
同じ日、先手隊は佐世保村から郡境の堺木を通り左石を見て一気に相神浦の中里宿に来て、平戸往還と賎津分道の追分に○印を残し、茶屋の篠崎茂吉宅で昼食、午後は相神浦枝村山口村にはいり、15間の相浦川を飛び石で渡り賎津浦に着く。
翌29日藩主より??(こなもち)一重、肴(さかな)一折宛(ずつ)届けられる。
翌年正月4日から、九十九島、小佐々方面測量。
正月16日晴天、昨年12月28日に残した中里の追分○印より測量が始まる。相神浦川は飛石で渡る、幅21間。本山、蜂ノ窪と登り、半坂峠の村境で小休している。日記を見ながら、忠敬らが歩数を数え一歩一歩あるいて行く姿が目に浮かぶ。
吉田松陰が平戸往還を歩くのは、忠敬の測量から37年後の嘉永3年(1850)であった。9月11日長崎出立、12日永昌(諫早)を出て松原から彼杵までは船にのる。川棚塩田を通り早岐着、13日雨早岐出立夜になって江迎投宿。14日平戸城下に到着。
13日の雨中での早岐から佐世保、中里を通り江迎まで八里(32キロ)の旅は、さすがにつらいものだったらしく、「是の日艱難(かんなん)は忘れられない」と書いている。
2ヶ月の平戸遊学を終えた松陰は11月6日海路、長崎へ出発している。午後平戸出発、楠泊で船中泊、翌朝向後と寄船の番所の間を通り、針尾瀬戸を通り7日の四ツ(10時頃)時津に到着。松陰が乗ったのは、平戸より毎月長崎へ行く飛船(速船)で、天草の僧一人、船主度(たく)島宇三郎、水夫三人と自分の、6人乗り組みとある。
平戸藩主は長崎勤番があり、しかもこのころ外国船の往来が増加し、長崎行が多くなっていた。オランダ船の入港時期の6月、出港期の9月はそれぞれ長崎へ行った、
ほとんどは海路で、往路は途中針尾島の鯛の浦で船中泊で翌日時津に着船、陸行して長崎着到。帰路は鯛の浦か田原浦(俵浦)で船中泊して城下に直行した。
写真12 平戸往還
(早岐付近)
写真13 平戸往還
(中里宿付近)