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佐世保の歴史

江戸時代の佐世保

11 浦方の人々

 佐世保市の出発点となったのが佐世保浦である。
 上の絵図は江戸時代の佐世保浦を描いている。「約300年以前の佐世保市街図」とだけ記され、その出所、作者、年代も分からない。ただ絵図中の人名と新田の場所から天明の頃と推測できる。
 絵図の右上で鍵状に曲って、左の方の湾口へ注ぐ川は佐世保川である。流域の右岸一帯に集落が発達し、人家と戸主名が記入されている。これが現在の元町附近である。その対岸に「新田」と見える辺りが、現在の港町から浜田町附近である。この一帯は天明のはじめ(1781)浜崎七郎左衛門により干拓され、後に古新田と呼ばれる。
 川の曲がり角、河口に向って右岸に佐世保村の湊蔵があり、その前に波戸が築き出してある。次いで加子長屋が17、8軒並んでいる。
 絵図右側の佐世保浦の集落を見てみよう。集落の右上に教法寺があり、そこから右下に集落の中を道路が通る。佐世保川を飛び石で左岸に渡ると、すぐ近くに佐世保本陣(現在専売公社跡)があったはずである。
 浦の人名には、まず町年寄総領格播磨屋惣兵衛、年寄惣領格浜崎七郎左衛門、浦年寄浜崎源右衛門など浦役人の名が見える。また浜崎七郎左衛門の酒蔵がある。
 町年寄は中小姓で代官などと同じ格である。播磨屋の号をもつ尾崎氏は安政年間、河口右岸現在の佐世保公園の所を干拓し、海軍の練兵場になる前は塩田を経営した。
 早岐浦は佐世保浦の何倍もある大きな浦で、すでに寛文4年に戸数136戸人口704人と記録されている。
 それは海陸交通の要地であり、宿場としての機能の外、藩境に近いので軍事・警備の面でも重要な位置にあった。そこで警察のはたらきをもつ押役所がおかれた。舳の峯や木原番所、向後崎番所もその管轄下にあった。
 天保10年、崎村家文書に早岐浦の浦役人が記してある。 「浦目付 崎村国平 浦年寄役五人 村山紋右衛門、谷村吉五郎、福田貞右衛門、前川与三郎、吉村五郎左衛門 浜使(使)壱人 惣領格 椎葉儀左衛門」
 この文書によれば浦年寄の者が三ケ皿山御用達を仰せつけられたり、平戸島の松杉苗代を献銀して惣領格(そうりょうかく)を得たりしている。浦の石高は無高であったが商業が発達し、商人が力をもってきたことが分かる。

図1 佐世保の中世城館の分布

図2 倭寇の活動範囲
(肥前と高麗より)

 

 

 
 

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