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佐世保の歴史
江戸時代の佐世保
12 斉藤松五郎と草刈太一左衛門
長崎県下での石炭採掘は宝永2年(1705)ごろ、平戸領江迎の五平太(ごへた)が長崎港外高島で始めたといわれる。
佐世保地域の炭鉱開発の史料は多くないが、岳野(たけの)町の近藤家文書に、弘化4年(1847)と嘉永年間の石炭積出改帳や石炭運上取立勘定目録などがある。
それによれば、佐世保村の赤崎山、日宇村の尼潟山、山口村では船越山、大谷山、建行崎(牽牛崎)、椎木田尾山などの石炭山が採掘されていた。赤崎山では山崎建兵衛が5,489樽、湊庄九郎が8,620樽(100樽で6屯)を積出している。
積出先は大部分が瀬戸内沿岸の塩田である。近い所では大手原塩田も入っている。入浜式塩田の製塩の最終段階で塩水を煮つめるのに、石炭が使われ始めていた。
佐世保地域で、炭山の開発に特に貢献したのは、賎津(しず)浦(相浦)の塩屋松五郎で、文政年間(1820〜1829)の時期であった。
松五郎が藩の許可を得て開いた炭山は、今の小佐々町の大瀬と長浦であった。初めのころは露天堀であったが、次第に抗掘(あなぼり)へと進み、大瀬・長浦の石炭山から賎津浦の港までは行き交う石炭船で賑わった。松五郎の石炭業はいよいよ盛え、藩からも格式を与えられて、斉藤松五郎と名のるようになった。
しかし、松五郎は文政9年(1826)、平戸藩から「欠所処分」を受け、炭山を始め全財産を没収され、一家は路頭に迷うことになった。実は松五郎に妬(ねた)みを持つ者が、松五郎は五島沖で、外国船に石炭を売る密貿易をしていると、長崎奉行所に密告したためといわれている。
このため母は心痛のあまり急死し、松五郎もまた翌年の12月、平戸で打首になってしまった。松五郎には長兵衛という子があったが、後年同じような災禍にあって処刑されたと伝えられている。天保の頃まで五平太船(石炭船)で賑わった賎津浦(相浦)も、こうして一時はさびれてしまった。
しかし、長くせずして、相浦の恋塚左平や中里の草刈太一左衛門を始め、小佐々の久田繁左エ門、佐世保の山崎喜平治などにより再興され、北松浦郡や佐世保は産炭地の一つになった。
草刈太一左衛門は文化12年(1815)大野村で生まれた。幼名は源蔵。父弥平は源蔵が幼い時に中里宿に移り住んで、魚屋を営んでいた。源蔵は小さい頃から父
と共に毎朝早く山口村大崎の漁港に魚を仕入れに行った。幼い源蔵は目前に広がる相浦川河口の広大な干潟を目に焼きつけていたに違いない。
やがて源蔵は福岡の筑豊炭田に出かけ、石炭業の盛んな様を見聞して帰った。
戻った源蔵は早速父を説き伏せ、まず石炭の仲買を始めた。やがて小型の帆船一隻を買い入れ、これを元に石炭輸送業で成功し、炭山の持ち主となった。炭坑事業は日々盛んになり、やがて中里から小佐々方面にかけて、40以上の炭山と十数隻の帆船を持つまでになった。
弘化4年(1847)源蔵は藩主に御用金一千両、小作米25俵を上納し、父弥平は馬廻に取り立てられ、その名を草刈太一左衛門と名乗ることになった。
石炭長者となり、やがて自らも太一左衛門と呼ばれるようになった源蔵は、少年時代からの念願であった大潟(おおがた)新田の干拓に乗り出すことになった。まず干拓の経験を身につけるため、山口村真申の干拓許可をえて、嘉永6年(1853)新田20fを造成した。
安政4年(1857)12月、藩の許可をえていよいよ大潟新田の干拓に着手した。 相浦川河口に広がる広い干潟を抱きこむように、両方から頑丈な潮受堤防を築く大工事がはじまった。太一左衛門は毎日引潮時になると、もっこをかつぎ、くわをふるう人夫や土工のさしずに歩き回った。近くの山々がけずられ、土が団平船(だんべせん)で運ばれた。
工事はなかなか困難で、途中で長雨がつづいて、折角築いた堤防が流されたこともあった。こうして8年の歳月が過ぎ、慶応元年(1865)4月9日、遂に潮止めの日がやって来た。
藩主松浦詮(あきら)公をはじめ、藩の役職の人々や地元の見物人の見守る中で、潮止め口の両方に土俵やせき板が用意され、人夫たちが太一左衛門のはじめの太鼓の合図を待った。わずか3、4時間の引き潮の間に工事をしなければならない。太鼓がなり工事がはじまった。
約七〇fに近い大潟新田は、昭和の中頃まで広い田原で毎年数100俵の米がとれた。太平洋戦争前に第二海兵団になり、今は陸上自衛隊教育隊の敷地である。
写真18は、当時のおもかげを残した水門と土堤である。新田の大きさは写真19でうかがい知ることができる。手前が遊水池である。
図20 江戸幕末の佐世保周辺の炭坑
(大手原と赤子は塩田)
写真17 五平太船の復元
(口の津町教育委員会提供)
写真19 大潟新田
(現陸上自衛隊相浦駐屯地)