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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
2 楠本端山、碩水と鳳鳴書院
佐世保地区において、漢学、詩文の教授を中心に、儒教にもとづく尊王(そんのう)思想、人間の生き方を含めた人間教育を実践したのが針尾の楠本端山(たんざん)、碩水(せきすい)の兄弟であった。
二人は針尾の楠本氏の長男、三男に生まれ、幼少の頃より厳格な父の教育で漢学、詩文の力を身につけた。
平戸に出て学問に励み、その優秀さが認められて相次いで江戸に上り、高名な学者の教えを受けた。
嘉永6年(1853)端山は平戸へ帰り、藩校「維新館(いしんかん)」の教授と藩主の漢学の講義を勤めた。藩主の信頼も厚く、ペリー来航に際しては所信を申し述べたという。
思う所あって一時針尾に戻った端山であったが、幕末の激動は端山の学識と手腕を必要としていた。
藩主の命により藩政に深く関わるようになった端山は、幕末から明治にかけての激動の中で、尊王の方向へ藩をリードし、明治維新の荒波を乗り切っていった。
碩水も平戸に戻り、兄と同じく藩校の教授と藩主への漢学の講義を行った。保守的な藩校の改革をめざしたが果たせず、文久3年(1863)平戸に櫻谿(おうけい)書院を建て、自分の信ずる教育を進めようとした。しかし、碩水の身もまた多忙で、書院の運営も他人に任せることになった。
明治維新後、新政府は京都に大学を設置し、碩水は選ばれて少博士となり漢学を教授した。しかし大学は1年程で廃止された。明治2年(1869)針尾に戻った碩水はその後二度と藩に仕えることはなかった。
碩水は京都よりついてきた二名の弟子と共に「梅林山荘(ばいりんさんそう)」とよぶ小さな家をつくり学問に打ち込んだ。碩水を慕って多くの若者が集まり、たちまちその数もふえた。塾名も明治14年「江西書院」と改めている。
明治14年4月、端山は平戸の屋敷を引き払い針尾に戻ってきた。碩水と協力して、自らの学問、教育の理想をめざし、翌年8月「鳳鳴(ほうめい)書院」を設立した。(口絵写真)
間もなく端山は没し、鳳鳴書院は碩水を中心に運営されていった。明治30年頃には義務教育の広がり等もあって、その教育的役割を終えたものと思われる。
碩水は大正5年(1916)没した、85歳。
梅林山荘から鳳鳴書院の間に、数多くの人材が巣立っ た。貞方弥三郎、浜本宗斎、森次郎、沖禎介(ていすけ)、菅沼貞風(すがぬまていふう)、菅沼周次郎等が著名であるが、他の門人も県下各地の産業、経済、教育等の各分野で、地域のリーダーとして名を残している人が多い。
写真1 楠本端山
写真2 楠本碩水と家族
写真3 楠本端山旧宅
(長崎県史跡)