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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
4 軍港設置
ペリー来航以来、幕府・明治政府が抱えた大問題は「海外列強による侵略(しんりゃく)の防止・独立の保持」であった。日本にとって海防は緊急の課題であり、そのためには否応なく海軍力の整備充実に力を注がねばならない状況に追い込まれていた。
政府は、イギリス、アメリカ等の先進国を手本にした海軍つくりに着手し、艦船の建造とともにその基地としての「軍港」の必要性がでてきた。軍港として理想的な立地条件を備えた港湾を探す調査・測量が日本中で行われていった。このような状況の中で、明治16年(1883)8月、軍艦「第二丁卯(ていぼう)」(艦長・東郷平八郎少佐)が佐世保湾に姿を現した。
現在から見れば、125トンの船は軍艦とは呼べないかも知れないが、当時の村人にとってその黒塗(ぬ)りの船体は今まで見たこともない巨大なものであり、まさに「黒船来る」という驚きであった。
肝付(きもつき)少佐一行が大村湾測量のためにやって来るということは、東彼杵郡長より数日前に各村に伝えられてはいたが、一般村民にはそのことは知らされていなかった。
この時の調査は大村湾(佐世保湾)だけでなく、他の候補地の伊万里湾や平戸の古江(ふるえ)湾などについても綿密に行われ、2年半の月日を要している。
翌明治17年9月、海軍大輔(次官)樺山資紀(かばやますけのり)が佐世保と伊万里を視察、10月には最新鋭の軍艦「金剛(こんごう)」が長崎のコレラ流行を避けて一月余も佐世保に入港した。
明治18年2月、海軍卿(大臣)川村純義(すみよし)、樺山資紀一行が視察にきて、村民の大歓迎を受け驚いている。四月には、樺山資紀と海軍省顧問の仏人港湾技師ベルタンが佐世保視察を行っている。
しかし、軍港は「佐世保に設置」という噂(うわさ)ばかりが先走りし、なかなか決定しなかった。薩長土肥という藩閥(はんばつ)のかけ引きと争いの中で、軍港設置も取引材料にされたのではなかろうか、佐世保か伊万里かで迷走し、古江(ふるえ)湾も含めて、綿密で慎重な調査が続けられた。
佐世保に軍港を設置する事が正式決定されたのは、明治19年(1886)5月の勅令(ちょくれい)(天皇の命令)によってである。その時の佐世保村の人口は4,000余であった。
その後佐世保は、周辺の村々を巻き込んで急激な変貌(へんぼう)を遂げ、軍港都市、消費都市への道を突き進むことになったのである。
写真4 第二丁卯
資料2 絵 「黒船」に驚く村民