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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
5 鎮守府の建設
軍港設置が決定し、軍港に必要な諸施設の建設が始まった。佐世保川西岸、今の総監部(そうかんぶ)の所にあった金比良(こんぴら)山や水田、湿地等の数百fが約62,000余円で買収された。誰もが見た事もない大金であったという。
明治20年1月、本格的な工事が始まった。周辺の村々や各県から人夫が入り込み、海軍省や県から送られた軍人や役人が工事を急がせた。金比良山を切り崩し、水田、湿地等をかさ上げする工事が突貫作業(とっかんさぎょう)で進められた。
工事を請け負(うけお)ったのは藤田組と大倉組であった。その下に何人もの下請人(したうけにん)がいた。中には人夫を低賃金で働かせ、賃金を持ち逃げする悪質な下請人もいた。
山の切崩しには火薬(地雷火(じらいか))が使われた。今のような機械も無く、作業は人力(じんりょく)に頼り、危険な仕事も多かった。従って死傷者も多く、死者は80余名に達した。
この当時歌われた「軍港数え歌」より
四つとせ、横島はじめ潮入崎
こんぴら山までみな堀りくずす、この海軍省
五つとせ、岩にかけたる地雷火(じらいか)で
けが人、死人が数知れぬ、この海軍省
西方寺(さいほうじ)の参道入口にある役夫死者(えきふししゃ)の碑(ひ)」は、明治21年6月、犠牲になった41名の役夫(人夫)の霊(れい)を慰(なぐさ)めるために建てられたものである。
○鎮西日報(ちんぜいにっぽう)(明治20年1月16日)
藤田、大倉組の下請人、賃金の不払いで逃げ帰る者が 多い。ある組など2,000人もいたが、今は2、300人と か、それでも何千人でも甘言(かんげん)に釣(つ)られて来る者が多い。
衛生面でも何千人もの汚物(おぶつ)、塵芥(じんかい)が放置され、春から夏に伝染病が発生するのは間違いない。
○同 (明治20年3月)
佐世保鎮守府の請負(うけおい)薩摩組の人夫千有余名。工事現場が高岸で、土塊岩石崩壊(どかいがんせきほうかい)のため多くの死傷者を出す。
そのせいか人夫の帰郷相次ぎ、残った人夫はつらい労働をしている。
○同 (明治21年4月末)
昨今21年1月4日起工以来、日本土木会社の使役人夫中・・・即死12人、負傷者515人その内治療中死亡せし者26人、全治489人、廃疾(はいしつ)12人、死者の数は合わせて38人に及んだ。
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