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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
6 市街地建設
明治22年(1889)3月、赤松中将が初代佐世保鎮守府長官に任命され、7月1日鎮守府が開庁した。
この頃には、第一期建設工事もほぼ終わり、主要な建物が姿を見せ始めていた。横須賀等から数百名の海軍兵が送り込まれ、12月には鎮守府庁舎も完成し、海兵団も第一期入団兵を迎えた。こうなるまでに満3年の月日と当時の金額で100万円という多くの費用を要した。
明治23年4月26日、佐世保鎮守府開庁式が天皇を迎えて行われた。盛大な儀式に参列する人に加えて長崎や近郊からの見物人が押し寄せ、村は人、人であふれ返り、宿も無く野宿する人も多かった。
一方、軍港建設と並行する形で、計画的な市街地造りが進められていった。建設開始と共に数千人ともいわれる人々が佐世保に押し寄せ、放っておけばあちこちに勝手に家が建てられていくおそれがあった。
海軍省と県では、軍港設置内定の頃から佐世保の都市建設計画をたて、明治19年9月「佐世保家屋建築規則」を定めて無秩序な家屋等の建築を厳しく制限した。
現在の佐世保の中心地は、江戸時代後半の干拓地で、当時は水田や湿地であった。そこにゴバンの目の道路をもつ近代的な都市の建設が計画された。計画は多額の資金を必要としたので、何回も練り直され、当初の計画よりもかなり縮小された上で実施に移された。
まず、石垣を1〜3mもの高さに築き、土砂を入れて道をつくった。この時、最初につくられた道が現在のアーケード通り(旧本通り)で、その後長らく佐世保の幹線道路となった。上の絵のまん中を通る道がそれで、佐世保川と佐世保橋(木橋)が描かれている。
その後、道路に沿って大量の土砂を運び入れて宅地をつくった。その費用は村や地主、建築者の負担だったので、人々は再三宅地の高さの制限を低く緩(ゆる)めるよう陳情書を出している。
松浦家や山縣家(やまがたけ)の所有だった水田も年々埋立(うめたて)が進み、10年もたつと現在の市街地の基本的な形ができあがった。松浦町、山縣町という地名はその経緯(けいい)を物語っている。地名から見ても、元町は佐世保村の中心だった所であり、浜田町、湊町、島瀬町、島地町、塩浜町などは、それぞれが海岸や干拓地を埋める前後の状況が分かる地名である。平瀬町や鯨瀬は海中にあった瀬を埋めて陸地としたことにより、その名がついた。