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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
7 日清・日露戦争と佐世保
日清・日露戦争によって佐世保は大陸への前進基地としての役割が確立し、施設、設備が急速に整えられた。
日清戦争(明治27〜8年)の直接の原因は、朝鮮の支配権をめぐっての日本と清の対立であった。
8月1日の宣戦布告(せんせんふこく)で戦闘は正式に始まったが、実質的な戦争はそれ以前から準備され開始されていた。佐世保に集結していた連合艦隊の出港、海兵団での出陣式が歓呼(かんこ)の中で行われたのは7月下旬のことであった。
日本軍は陸海共に勝利し、翌年四月下関条約が結ばれ戦争は終わった。この間、佐世保は弾薬(だんやく)、石炭、食料、水など軍需物資(ぐんじゅぶっし)の供給地として大変忙しかった。
人々は勝利を喜び、各村々で祝勝会が行われ、戦費の寄附、慰問品の寄贈が相次ぎ、街は人でにぎわった。
日本は下関条約で遼東(リャオトン)半島を清から譲(ゆず)り受けたが、東洋進出の機会をねらっていたロシアはドイツ、フランスをさそって三国干渉(さんごくかんしょう)を行い、遼東半島を清に返させた。その上、ロシアは返還された遼東半島を強引に清から借り受け、旅順(りょじゅん)に大海軍基地の建設を進めた。
このことは、日本国民に強い反ロシア感情を抱かせ、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に国力の充実と軍備の増強に突き進ませた。また、ロシアの進出を抑えたいイギリスは明治35年(1902)日本との間に「日英同盟」を結んだ。このような日本の動きは、国民の税負担を重くし、人々の生活を圧迫した。
この間に佐世保は大きく変貌(へんぼう)した。明治31年鉄道が開通し、35年には市となった。船渠(ドック)、船台、火薬庫、石炭庫、岸壁、水道、倉庫がつぎつぎと建設された。佐世保軍港を守る砲台(だい)が築かれ、陸軍重砲兵連隊も設置され、戦争の準備は着々と進められていった。
明治37年(1904)2月に日露戦争が始まり、日本軍は多くの損害を出しながらも陸海において勝利を収めていった。特に旅順(りょじゅん)陥落、日本海海戦の勝利は国民を大いに喜ばせ、佐世保は特に歓喜の程も大きかった。翌年戦争が終わり、大勝利をあげた連合艦隊が佐世保に凱旋(がいせん)すると、市民は熱狂的な歓迎でこれを迎えた。
この間、佐世保軍港は、日清戦争の倍以上に艦船の出 入り、兵員や軍需物資の輸送が集中し繁忙(はんぼう)を極めた。
立神係船池(けいせんち)、赤煉瓦(あかれんが)倉庫群、海岸の埋立て、海軍工廠(こうしょう)の充実、兵員の増加等々、軍港としての施設の整備、拡充(かくじゅう)はこの後も続けられていくのである。の文化財になっている。