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佐世保の歴史

明治時代の佐世保

8 明治期の産業・交通

 明治初め、佐世保地域の村々での産業といえば農業で、米・麦・いもが主産物であった。海岸には漁村が点在し、自給自足や物々交換を主とした生活であった。
 明治維新後事業を起こす人も出て、明治7年早岐に陸運会社が設立された。明治12年には牧山有恪(まきやまゆうかく)が中心となり早岐起業会社を設立、これが早岐銀行となり、後に佐世保に進出して、現在の親和銀行へと発展した。
 相浦の草刈武八郎(ぶはちろう)は明治14年に勧業(かんぎょう)会社を設立、後に相浦銀行となり、佐世保に進出した。
 平戸藩の保護の下、営々と続いた三川内焼も、維新後民間の経営となり、不況と激しい競争の中で衰退(すいたい)しつつあった。これを憂(うれ)えた三川内の豊島政治ら有志の人々は、木原や江永の業者とも協力して万宝山商舗(まんぽうざんしょうほ)を設立し、再建に乗り出した。商圏の拡大が最大の課題だった。
 そのために技術の保存、革新に努めた。明治32年(1899)に三川内陶磁器意匠伝習所(とうじきいしょうでんしゅうじょ)を設立し、技術者、後継者の養成に力を注ぎ、大正4年(1915)村営になるまでに164名の伝習生が育って行った。
 早岐附近にはレンガ作りに適した土が豊富にあったようで、宮、広田、早岐、江上大島などに工場が設立され、大正にかけて毎年200万個以上を焼き、大部分は舟で佐世保に運ばれ、軍港建設に役立てられた。
 日宇から北松にかけては、江戸末期から個人経営で石炭採掘が始まり、炭層を見つけては危険を承知で石炭を掘り出し、製塩等の燃料として瀬戸内などに運んだ。
  これらの群小炭鉱は景気に応じて開坑、閉坑を繰(く)り返していたが、佐世保軍港の設置により大部分は明治33年の要塞(ようさい)地帯法によって軍港境域(きょういき)となり、開坑は厳しく規制された。ただ、要塞地帯外であった大野、柚木に炭鉱が開かれ、約2万トンが市内に供給された。
 日清、日露戦争、海軍工廠や市内の産業の発展で石炭の需要は高まったが、地域の石炭産業の発展には結びつかなかった。資源はあっても許可されなかったのである。
 佐世保から北松にかけての炭鉱は炭層が薄く、炭質も中等程度で、小規模小資本の経営は景気に大きく左右された。
 石炭商も明治後半には営業を始め、数も増えている。  軍港設置以後の佐世保の人口は増加の一方をたどり、それにつれて人々の生活を支える各種の産業が発達し施設も整えられていった。酒、みそ、しょうゆ、菓子、石 けん、ガラス製造、水産加工等の工場が市内につくられ、蒸気で動く機械の音と、レンガの煙突から吐きだされる黒い煙がしだいにふえていった。
 人口の増加は商業を発展させた。海軍の軍人、兵士やその家族、軍艦乗組員、数万人の市民による消費は年々ふえる一方であった。それに加えて海軍工廠(こうしょう)の拡張、多数の艦船の出入りが、木材、石炭、運送、食料、衣料品等の商工業を生み出したが規模はまだ小さかった。
 産業の発展には交通の整備が必要である。当時の道路はむかしの街道をそのまま国県道として受け継(つ)いでいる。道巾1m〜2mであった。他に村道、里道もあったが、雨が降ればぬかるみ、坂の多い道であった。  佐世保が軍港としての重要性を高め都市としての形を整えて来るにつれ、近くの村々と連なる道路の整備、開通も進められた。  柚木村の立石寛司(たていしかんじ)は、明治10年頃から相浦谷の人々に道路の大切さを説き、明治22二年(1889)には相浦〜大野〜柚木間の道路の開通にこぎつけている。この道路は柚木の石炭産業の発展を促(うなが)した。
 物資、情報、人が集まる長崎港と新興軍港都市佐世保 との交通は、鎮守府設置と共に盛んになった。時津(とぎつ)〜早岐間の大村湾航路では、寄港地大村、彼杵(そのぎ)等を巻き込んで和船、蒸気船の値下げ競争が新聞記事となる程で、便数も急増していった。長崎〜佐世保航路には長崎発の汽船が就航し、新聞で出入港時刻を知らせた。
 佐世保〜早岐間にも定期船が就航し、馬車、人力車と共に多くの乗客、貨物を運んだ。
 明治22年(1889)9月深川運輸によって佐世保〜大阪間の定期航路が開かれた。深川運輸は大川運輸と改称し、大阪〜大川間の汽船が佐世保にも寄港している。尼崎(あまがさき)汽船の寄港も実現していた。
 明治29年に出版された「佐世保繁昌記(はんじょうき)」に佐世保からの寄港地、運賃、時刻表が詳(くわ)しく書かれている。佐世保〜大阪航路の船は九州北岸、瀬戸内海の一三港に寄港している。長崎〜佐世保、平戸〜佐世保、瀬戸〜松島〜佐世保、面高〜佐世保の航路もあった。(表4)
 明治43年には佐世保〜五島航路に深川汽船が運航を始め、翌年九州汽船に代わっている。このように年と共に佐世保を発着する定期船の数は増え続けた。

写真7 三川内焼・山口馬之助氏の工場

資料8 新聞広告

資料9 市内の商店の広告(明治末) 写真9 立石寛司顕彰碑

表4 長崎〜佐世保〜平戸 航路の定期船

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