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佐世保の歴史

明治時代の佐世保

10 急増する人口と人々のくらし

 軍港設置以前の佐世保村と周辺の村々は、明治維新の波にもまれながらも江戸以来の生活を続けていた。
 この村々に変動をまき起こしたのが明治19年の佐世保軍港設置であった。その変わり様を(表4)で人口の動きをもとにたどってみよう。
 明治8年〜44年の36年間を平均すると、佐世保村(市)では、1年間に350戸の家がふえ、2,400人が移り住んで来たことになる。毎年村が一つずつふえていったことになる。
 狭くて平地が少ない佐世保村の中心部に、家と人がひしめき、そこにまた次々と人が入って来る。入りきれなくなり、人々は外へ外へと居住地を広めていった。
 人口流入が最も激しかったのは、日清戦争〜日露戦争(1894〜1905)の10年余りで、この間に6万人余りの人々が押し寄せた。1年間に12,000人がやって来た年もあり、全ての面で混雑と混乱を極めた。新開地の特色として、男女の人口差が大きく3対2であった。
 激しい人口の増加に全ての物資、商品の供給が追いつかず、全てが「足りない、足りない」の状況であった。 従って物価は高く、特に多数の軍艦が入港すると一気に何割も物価が上がる「艦隊相場(かんたいそうば)」「水兵相場」があって市民や兵士を悩ませた。
 また、貸家、貸間の数が不足して家賃が高く、よそからやって来る軍人、兵士、役人、一般人にとって大きな 負担となっていた。質屋、高利貸(こうりがし)も多く、市民の生活状況を物語っている。

○鎮西日報(ちんぜいにっぽう) (明治29年5月16日)
 ・佐世保の物価は長崎に比し3割の高値・・・
 ・家賃未だ下落せず、2階8畳2間、下8畳に6畳くらいの家。町中では12円ないし18円くらい。8畳1間の間借で2円50銭から3円くらいである。
 (明治32年、東京での同程度の家の家賃が1ヶ月80銭から1円程度だから年間家賃と思われる)

 狭くてすり鉢の底のような街であるので、市民は洪水(こうずい)、渇水(かっすい)、火事に毎年おびやかされ、その上、衛生状態が極めて悪く、コレラ、赤痢(せきり)、チフス、天然痘(てんねんとう)、ペスト等の伝染病が年中行事のように発生した。県や市は消毒に追われ、市内は立入禁止、軍艦は港から逃げ出した。

表5 佐世保の人口の推移

写真13 明治40年頃の佐世保商港

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