hyousi_mark_mark_s.jpg (6168 バイト)

佐世保の歴史

明治時代の佐世保

11 佐世保村から佐世保市へ

 佐世保村の人口はふえ続け、明治31年(1898)には3万5千人を越え、市制施行の条件である3万人程度を軽く突破した。佐世保に鉄道が来た年である。
 急激な人口増に道路、住宅、水道、学校等の生活施設が追いつかず衛生状態も悪かったが、都市らしい姿も整(ととの)って来た。そうなると「人口も九州では10番内なのに村ではおかしい、この際市にしよう」との声が高まった。
 この声をリードしたのが明治32年刊行され始めた「日刊佐世保」であった。
 市になると、県→郡→村の命令系統が郡と同格となり、大村の郡役所を通さず県とつながることができた。
 明治32年5月、市制施行を求める請願(せいがん)が出され、村長は市制施行案を村会に提案した。村会では反対論や慎重論もあったが多数で可決された。村長は直ちに県に市制施行を請願したが、佐世保の中央部と周辺部では村民の負担に配慮の余地があり、反対論、慎重論も無視できないとして申請は却下(きゃっか)された。
 その後、村会でも検討を重ね、県側とも打合せた上で再度申請書を提出したが、その許可は得られぬまま2年余りが過ぎた。その間村会議員選挙も行われている。
 村北部の横尾、山中、熊ヶ倉の3免と山ノ田地区は農村で特に反対論が強かった。結局この3免と山ノ田を分離し佐世村とするという強引なやり方で佐世保市が誕生した。大変異例な市制施行である。
 明治35年(1902)4月1日、人口45,766人(年末には5万人を越す)の佐世保市が生まれた。
 根強い反対論を分村という手段によって、市制を施行した背景に、海軍の強い意向があったのかどうかについてはよく分っていない。
 軍港の主要施設が立地し、人口が集中していた佐世保村の中心部を主体に市制が施行されたことにより、佐世保市は、郡役所=郡長の強い管理と指導を受けることなく、市の抱える諸問題については県と直接協議し、迅速(じんそく)に解決できるようになった。このことは結果的には行政の効率化につながり、日露戦争を想定して軍港の拡充に取り組んでいた海軍にとってプラスになった。
 佐世保軍港は施設の拡充が相次ぎ、艦艇の出入りも急増し、艦隊訓練、軍需物資の調達と運送等多忙を極めた。交通、通信、衛生等も含めて、市が取り組むべき課題は増え続け、市勢は拡張の一途をたどった。

資料9 市制施行を求める記事、反対論者についての記事

写真14 市制施行と佐世村設立の認可書

678910

111213141516