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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
12 海軍工廠の発展
佐世保港と港を取り巻く施設、岸壁、ドック、工場の大部分は太平洋戦争までの六十年間で日本の海軍が巨額の費用をかけてつくり上げたものである。特に明治から大正にかけて行われた大工事が、佐世保港の形を大きく変えた。
佐世保は朝鮮半島、中国へ日本が勢力を拡張していく歴史の中で、常に戦場に一番近い前線基地の役割を果た し続けた。戦争ともなると弾薬、燃料、食糧が慌(あわ)ただしく積み出された。岸壁、倉庫、火薬庫、石炭庫が相次いで築かれていった。
戦争で損害を受けた艦船の修理を大急ぎでやらねばならない。修理にはドックが必要である。明治37年(1904)3つのドックが相次いで起工された。
これらの工事の中でもっとも力が注がれたのが、今も 港の中央部を占める大係船池(けいせんち)の築造であった。数隻の大きな軍艦を一度に横づけできる、大岸壁をつくることになった。
明治19年の地図で海につき出た立神と大蛇島、小蛇島を見つけよう。この半島、島をつないで岸壁で取り囲(かこ)み入口を締め切って海水をくみ出し、そのあと海底の泥
を運び出して佐世保川河口に埋立地を作り、倉島を陸続きにした。毎日大量の土砂が汽車や汽船で運び出された。
明治38年(1905)から始められた工事は、11年かかって大正5年(1916)にやっと艦船をつなげるようになった。たて360m・よこ575m・壁(かべ)の高さ約15m・深さ約10m「1万トン級の船9隻を同時につなぐことができる東洋一の施設である」と、海軍はしきりに自慢した。
もう一つの東洋一は、この岸壁につくられた250トンの大クレーンで、英国に注文して大正2年(1913)に据(す)え付けられた。レールの上を移動する起重機も数基つくられ、艦船の修理基地としての佐世保軍港の施設は現在の姿にほぼ整えられた。
佐世保海軍工廠(こうしょう)は、明治22年、鎮守府造船部として出発し、同30年海軍造船廠、同36年海軍工廠と改称した。佐世保海軍工廠の特色は、大型艦の建造は横須賀や呉、長崎の大造船所等に任せ、艦船の修理艤装(ぎそう)
基地・補給基地としての役割を第一としたことであり、艦隊を編成し出撃する出撃基地でもあった。艦船の建造は駆逐艦(くちくかん)、潜水艦(せんすいかん)、軽巡洋艦が中心であった。
写真15 完成直前の係船地 - 通水口からの通水
写真16 佐世保港に威容を誇る250トンクレーン