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佐世保の歴史

明治時代の佐世保

13 明治の宗教界

 江戸時代、各村には神社や寺院があり、村人は皆、神社の氏子(うじこ) 、寺院の檀徒(だんと)とされた。黒島ではキリスト教徒が厳しい禁教令にもかかわらず200年余り密(ひそ)かに信仰を守り通していた。幕末の元治元年(1864)「信仰復活」の動きが始まり、明治6年(1873)のキリスト教解禁と共にキリスト教徒としての信仰生活ができるようになり、黒島教会の建設につながった。
 明治初めに、寺院と神社が混じり合っていた「神仏混淆(しんぶちこんこう)」が禁止され、神社の力が強まり、多くの寺院や貴重な仏像、絵画などの文化財が破壊される不幸な時期があった。その後仏教も昔の姿にもどった。
 佐世保の人口増は寺院と墓地の増加につながった。明治中期まで佐世保の寺院は西方寺(さいほうじ)と教法寺(きょうほうじ)の2つであった。明治20年代以後、よそから移ってくる寺院が相次いだ。光輪院(こうりんいん)、阿弥陀寺(あみだじ)、九品寺(くほんじ)、東本願寺、黒髪山大智院(だいちいん)に続いて明治末期に教宗寺、延寿寺(えんじゅじ)、常念寺(じょうねんじ)、蓮行寺(れんぎょうじ)等である。他に寺院の構えがまだ整わず説教所(せっきょうしょ)と呼ばれたものもいくつかあった。
 キリスト教の伝道も早く、プロテスタント系では明治22年(1889)大久保に講義所が設けられた。信仰の灯は現在まで受け継がれ、潮見町の高台にある立派な教会となり実を結んでいる。
 佐世保駅前通りにそびえる通称三浦町カトリック教会は、明治32年に谷郷町にできた天主公教会直轄の仮分教会がその始まりといわれる。現在地に美しい姿を披露したのは昭和6年(1931)のことである。
 人口がふえ、寺院がふえ、墓地がふえていく中で、檀徒数の増加により急成長する寺院もあり、移転、分院の設置などがあっている。
 各村にはいくつもの神社があったが政府の方針により社格が定められ、郷社(ごうしゃ)、村社(そんしゃ)が指定され他は無格社とされた。また小さな神社は統合され、郷社や村社の敷地内に移された。
 それぞれの村に1つずつ村社が置かれ、村人によって護持(ごじ)され、村の行事として祭礼が行われた。
 日清・日露戦争での戦勝祈願、戦勝祝賀、出征兵士壮行式等は神社で行われることが多かった。
 僧侶(そうりょ)や神官(しんかん)は地域の有識者であり、高い識見(しきけん)を買われて村政に関与したり、教育者として活動する者も少なくなかった。

写真18 八幡神社

資料10 絵図 西方寺(大正3年)

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