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佐世保の歴史

明治時代の佐世保

14  明治後期の教育の動き

 明治後半は佐世保が市制を施行し、しだいに都市としての形を整えてきた時期でもある。
 人口の急増は小学校児童の急増をもたらした。佐世保村の佐世保尋常(じんじょう)小学校、佐世保尋常高等小学校は校舎の増築をくり返したが追いつかず、明治30年の火災を契機に校舎を新築した。また、女子の就学率向上のために佐世保女児尋常高等小学校を設置して、三つの学校に分離し、山ノ田、赤崎に分校を設置した。
 その後も児童の増加は続き、分校が独立し校舎は増築を重ねた。非常手段として明治34年(1901)からとられた二部授業も、1年生から2年生、3年生へと広がり、明治39年白南風(しらはえ)小、42年祇園(ぎおん)小を新設したが、二部授業の解消はできず、その後も続いた。
 社会、経済の発展は人々の教育への関心を高め、小学校卒業だけでは不十分とする市民の意識を生み出した。特に、高等教育を受け都市生活を経験した海軍、陸軍の将校、海軍工廠の技術者、医師等からの願望は切なるものがあった。つまり、海軍と市民の願いが力となって中学校、女学校の設立へと結びついていったのである。
 明治32年(1899)私立佐世保工業夜学校が創立された。その後数回にわたって校名、設置者、科の変更があったが一貫して夜間、定時制の学校として現在の中央高校に至っている。
 佐世保においては、男子よりも先に女子の中等教育の萌芽(ほうが)があったことは注目に値する。すなわち、明治35年(1902)山北トミの尽力により、佐世保女学校が創立され、翌年には久田ワキが、佐世保裁縫(さいほう)女学校を設立している。
 男子に対して本格的な中等教育を行う県立佐世保中学校が創立されたのは明治42年(1909)であった。  現在の八幡小のところに校舎があり、厳しい入学試験を経て優秀な生徒が入学した。上級学校への進学者も多く、特に土地柄で海軍関係の学校に進む生徒が相当数にのぼっていたという。
 明治45年、県立佐世保高等女学校が創立され、佐世保女学校は成徳(せいとく)高等女学校と校名を改めた。
 佐世保中学、佐世保高女、市立となった成徳高女共に入学試験の競争率は3倍以上と高率で、各学校の生徒は佐世保を担(にな)う気概(きがい)と誇りを持って学んでいた。

写真21 山北トミ

写真23 県立佐世保高等女学校

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