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佐世保の歴史
明治時代の佐世保
15 市街地の膨張と発展
十九世紀末〜二十世紀初頭の日本は戦争の連続であった。佐世保軍港には多くの人が集まり、市街地は人であふれ周辺へと拡大した。周辺の村々も徐々に人口がふえ、農業、漁業も活発になり、小工業も興(おこ)ってきた。
市制十周年記念誌「佐世保志」同三十年誌「佐世保の今昔」に書かれている当時の佐世保の状況を要約して紹介してみよう。
「明治19年佐世保に軍港が置かれてから最初に人と家が集中したのは佐世保浦(今の元町(もとまち))で、早岐から一本の県道が海軍橋(佐世保橋)まで達した頃までは、今の市街の大部分は一面の田圃(たんぼ)であった。その後、年と共に発展し、北西方の山野は軍人、役人の居住地となり、東南の平地は店が続く市街となった。
島ノ地(しまんじ)山(今の共済病院裏台地)と櫨山(はぜやま)(東本願寺裏台地)の間に一本の道と光月川があっただけだったが、 山を削(けず)り谷を埋め、次第に店舗住宅が並び、戸尾川、小佐世保谷、塩浜町の各方面に連なっていった。
明治31年の鉄道開通で佐世保駅が建設された。駅付近一帯は海面埋立が行われ、海陸交通の中心となった。
人家がふえ、三浦町、白南風町から福石付近まで市街がのびていっていた。
一方西の方へは今福町、金比良町、北部の保立町、俵町も市勢の発展を反映して、市街地化が進んだ。
なお、街路は最初大規模に計画されたが、人家が集中したのに土地が狭かったので、ほとんどが3分の1に縮小された。」
人口の集中、市街の形成が進むにつれて海軍や陸軍の施設、国や県の役所、銀行、会社商店などが市内の中心に相次いで設置され、病院、寺院、教会等も開業、開設が続いた。
佐世保玉屋の前身である田中丸商店が、日清戦争を契機に佐賀県牛津より佐世保に進出し、松浦町に開業したのは明治27年(1894)のことである。敷地100坪、店員20名の大型店は佐世保の人々の眼を驚かせた。
明治末頃は佐世保市街の中心が城山、天満(てんま)、相生(あいおい)、浜田町から松浦、湊(みなと)、常盤(ときわ)、栄町の方へ移った頃で、早岐、有田、九十九の各銀行が進出し、田中丸商店をはじめ大きな商店もこの地域に集まり、新しい繁華街となった。