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佐世保の歴史

明治時代の佐世保

16 明治時代の佐世保の女性

 佐世保は、明治19年(1886)海軍鎮守府設置が決定するまで、人口4,000人余りの、のどかな村であった。
 翌年、軍港都市の建設が始まり、他県から軍関係の職を求めてきた人、軍人、工員、商人、特に土木工事の人夫達によって人口は急速に増大していった。労働者の中には小取(こど)りという女人夫がいた。自給自足の寒村が、鎮守府設置により、生活物資等の需要が激増、中でも重要な食糧品は、近郊の村々の農産物、海産物の供給に頼ることになり、それらの生産、販売などには、地元の多くの女性が携(たずさ)わっていた。明治27年(1894)日清戦争、10年後の日露戦争の際には、愛国婦人会が結成され、銃後の守りとして活躍した。その一方、国は鎮守府設置と同時に、遊廓指定地を決定、次第に拡大していった。そこで働く女性は公娼と認められたが、私娼をおく料理屋、飲食店は数知れず、囚われの身の悲しさから、自殺、心中事件などが多かった。この女性達の多くは、県外や離島の出身者である。明治35年、私立佐世保女学校が、同36年、私立佐世保裁縫女学校が、山北トミ、久田ワキという2人の女性によって創設され、佐世保の若い女性達に勉学の道が開かれた。ほぼ10年後、軍の要請により、明治45年4月、長崎県立佐世保高等女学校が創立され、女子教育の基礎ができた。これらの学校で、当時の女性としての教養を身につけた卒業生の多くが、次の大正、昭和の時代に活躍するのである。
 以下は、文久2年生まれ、その83年の生涯を佐世保で生きた、ある女性の話である。
 「私が12の時、学校ができた。寺子屋で読み書きは習うとったが『学校に行かせて』というたら『女に学問はいらん』と反対され口惜しかった。弟は大学まで行った。17歳の春、眉を剃り、お歯黒で歯を黒く染め、(これは悲しかった)、天明の頃から、佐世保川の畔(ほとり)で、代々続いている造り酒屋の嫁となった。夫は幼馴染の従兄である。5年後、海軍の測量艦「第二丁卯(ていぼう)」が入港し、佐世保村は大騒動であった。我が家は艦長東郷少佐の宿泊所となり、1ケ月余(あまり)、私が用意した弁当を腰に、わらじ履きで周辺の山や海辺の調査をした。少佐の晩酌の相手は私達夫婦であった」と懐しそうに語った。村の頃には、船越方面から、徳利を、さげて買いにくる客が主であったが開港以来、客も増え賑(にぎ)やかになった。特に退(ひ)け時に立ちよる工員さん達にはサービスをしたそうだ。

写真27  久田学園創設者 久田ワキ

写真29 明治時代のある女性を中心とした家族

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