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佐世保の歴史
大正時代の佐世保
1 大正のころの人々の動きとくらし
日露戦争後も佐世保への人口流入は続き、大正4年にはついに10万人を越えた。翌々年には11万人台に達したが、その後10年間は11万人台でほとんどふえていない。不景気が広まり、仕事がなかったからである。
大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦で日本の経済は好景気に湧(わ)いた。佐世保周辺も大きく変化を遂(と)げつつあった。市域に入り切れない人々は、隣接する日宇、山口、佐世、大野村へと広がり、鉄道、道路、航路も整備され、軽便(けいべん)鉄道、西肥バスの開業につながった。
明治末には電話、電力、水道が、大正初期にはガス灯がつき、映画館の「朝日館」「敷島(しきしま)館」が開業した。
海軍工廠では駆逐艦(くちくかん)の建造が続き、大型艦も配備された。大戦開始1ヶ月後、ドイツに宣戦(せんせん)した日本は、ドイツの基地青島(チンタオ)を攻め、地中海へ駆逐艦隊(第2特務艦隊)を派遣した。これら艦船の基地は佐世保であり、鎮守府在籍下士官(かしかん)数もふえ続け1万9千余名に達した。
大正6年(1917)ロシア革命がおこり、日本はシベリアへ出兵した。大戦景気による物価上昇とシベリア出兵を見越した大商人による米の買い占めで、米価は2倍になり、庶民生活を圧迫した。
大正7年7月富山県に始まった「米騒動(こめそうどう)」は、すぐに日本中に広がり、民衆が米屋や大商人を襲ったりした。
この動きは佐世保にも及び、同年8月20日工廠職工150名が栄(さかえ)町の共済会購買(きょうさいかいこうばい)組合本部に押し寄せ、米価引下げを強く要求した。また、大正9年12月21日、工廠職工1万3千余人で組織する技工団(ぎこうだん)千人余が、商品価格が高過ぎるのに抗議して不買同盟(ふばいどうめい)を結成した。市や海軍が技工団側の要求も入れて調停にこぎつけたのは翌年1月8日であった。好景気といっても、一部の業者や商人を儲(もう)けさせただけで、庶民は物価の上昇に苦しんだ。
悲惨な戦争への反省で軍備縮小の声が世界に高まり、大正11年(1912)のワシントン会議と昭和5年(1930)のロンドン会議で軍縮(ぐんしゅく)条約が調印された。軍艦の建造中止、廃艦(はいかん)が続き、1万2千余名いた海軍工廠の職工は人員過剰(かじょう)となった。大正12年より大量解雇(かいこ)が始まり、大正14年には8千名に減った。
市でも不況対策として社会事業に力を注ぎ、公設市場や各種託児施設の開設、家内工業の奨励、職業紹介所や養老院の設置、市営住宅の建設、失業者救済(きゅうさい)のための各種道路の建設などを行った。