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佐世保の歴史
大正時代の佐世保
2 交通の発達ーバスと航路
明治末から大正初め佐世保は何回もの洪水に襲われ、家も堤防も橋も流されるという被害を四回も受けている。そのことを教訓にして佐世保川にかかる重要な橋はコンクリート化されていった。烏帽子岳、弓張岳の麓(ふもと)には住宅がふえ、約4m幅の道路が延びていった。しかし、道路や橋をいくら造っても、急激にふえる人口と宅地の拡大には追いつかなかった。
道路交通の主役は馬車、大八車、人力車に代わって乗合(のりあい)自動車の時代を迎えていた。市もまた綿密な都市計画をたて道路網の整備にとりかかった。
市と市外を結ぶ陸上定期便が開通したのは、大正6年(1917)のことであった。定期乗合馬車が市内〜相浦間を走ったのがその始まりであった(市内線は明治33年から佐世保駅〜八幡町間を定期的に通っていた)。
翌7年には大野〜佐世保駅、早岐〜八幡町間に乗合自動車が登場し、相浦〜市内間も開通、業者間の競争も激しかった。
その中から大正9年(1920)2月西肥自動車株式会社(西肥バス)が設立され、佐世保と郊外をつなぐ重要な交通機関として発展を続けた。
明治時代の佐世保港は海軍艦艇の出入りが中心であったが、早岐、長崎、平戸との定期航路も始まっていた。港湾施設は貧弱で、客船の着岸もできなかった。
大正初め、佐世保川河口部の護岸工事が行われ、定期船の着岸が可能になった。相浦港の改良工事も行われた。
市は市勢発展のために航路開拓に努め、長崎・釜山(ぷさん)航路の寄港が実現した。大村湾航路の船もふえ、東彼(とうひ)、西彼(せいひ)との交流が増した。明治中期に始まった長崎航路は西彼の外海(そとめ)や島々との交流を増し、崎戸、大島、五島との航路も続々と開かれていった。
平戸や北松浦郡の沿岸部と早岐、佐世保、相浦間は年貢米や農水産物、石炭等の輸送で江戸時代から結びつきが強く、大正時代になると定期船の数も多くなった。
また、佐世保港に面した早岐、江上、崎針尾、瀬川、俵ヶ浦、庵浦、赤崎等には軽快な発動機船が活発に往来し、人や物を運ぶ動脈となっていた。
大村湾、西彼、北松、平戸航路の船は10〜100トン未満で、長崎〜佐世保航路で100トン台、釜山航路で500トン程度であった。駅裏一帯が指定港湾となり念願の商港となったのは、大正15年5月であった。