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佐世保の歴史

大正時代の佐世保

5 大正・佐世保の文学

 新興都市佐世保に足跡を印(しる)した文学者は意外と多い。また、佐世保を作品の舞台にのせているものも見られる。
 吉田弦二郎は幼少の頃に住んだ佐世保の姿を「白雲飛ぶ」の中に記している。彼は昭和31年に亡くなるまで故郷の佐世保を愛し続けた。鵜渡越(うどごえ)に文学碑(ひ)がある。
 日清戦争中の従軍記者国木田独歩は「愛弟通信」の中で、佐世保軍港に触れ、また佐世保海軍病院を作品に登場させたのが徳富蘆花(とくとみろか)の「不如帰(ほととぎす)」で、浪子と武男の悲しい物語は評判を呼び、芝居や映画が全国で上演された。
 日露戦争前後の活気溢れる佐世保の姿は海軍軍人水野広徳の「戦影」や佐中出身で癌(がん)研所長だった田崎勇三博士の随想録(ずいそうろく)「癌研の院長室で」にも一部書かれている。
 明治40年「明星」新詩社主幹、与謝野(よさの)寛を中心に20代の新進文学者吉井勇、平野萬里(ばんり)、木下杢太郎(もくたろう)、北原白秋(はくしゅう)の5人が佐世保に立ち寄っている。夜店通りの雑然とした様子を「熱闘の區(まち)、煙塵(えんじん)の巷(ちまた)」と記し一編の詩を書いている。その詩碑(しひ)が夜店公園の「五足の靴文学碑」である。彼等はこの後、平戸、長崎、天草をまわり、白秋はこの旅をもとに「邪宗門(じゃしゅうもん)」を発表した。
 「放浪紀(ほうろうき)」の作家林芙美子は明治44年長崎から八幡小学校に転校した。行商人の養父と共に各地の小学校を転々としており、後に放浪記の中で直方へ行って「佐世保のように女が美しくもない・・・」と書いている。
 明治末〜大正初め佐世保にも文学の萌芽(ほうが)が見られた。何人かの俳人が活動を始め、川原田蒲公英(ほこうえい)がその組織化を図った。明治43年2月河東碧悟洞(かわひがしへきごどう)が、全国行脚(あんぎゃ) の途中佐世保に立ち寄り句会が開催されている。
 森永百二城(ひゃくにじょう)は、大正中期に京都の俳人青木月斗(げっと)と佐世保俳諧を結びつけた功労者である。地元俳人達は、月斗を主宰者(しゅさいしゃ)とする「同人」の下に集まり研鑚(けんさん)に励んだ。その中から森下珊々(さんさん)、犬塚四兄弟(思杏(しきょう)、皆春(かいしゅん)、花中、春径(しゅんけい))らが育ち佐世保俳壇の声価を高めていった。
 佐世保を代表する政治家であった北村徳太郎は、一方では文化活動に深い理解を示し援助を惜しまなかった文化人でもあった。「随想集」は文人北村の面目を伺える作品である。
 佐世保の映画王、安福秀治郎の随筆「いかの徳利」、警察畑で活躍された古屋安治氏の「高い石段」は、大正末期の佐世保市街の様子や人々の姿を伺うのに好適の作品で、当時の風俗、風物誌として貴重なものである。

写真11 夜店公園に建つ「五足の靴文学碑」

写真13 青木月斗句碑

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