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佐世保の歴史
大正時代の佐世保
6 大正時代の女性
大正時代は女子の高等教育への高揚がみられ、県立佐世保・成徳高等女学校共に、生徒数が漸増した。
一方、実用本位の学校の要望も強く、佐世保実修女学校、早岐実科女学校も創立された。
女子の進学率の向上と、高等女学校卒業後の進路をみると、佐世保の特色を知ることができる。
大正9年の佐世保高等女学校卒業生の進路をみると、123名の内、上級学校進学24名(19.5%)、小学校教員8名(6.5%)、海軍工廠勤務10名(8.1%)と、まだ良妻賢母主流の教育の中から、自立した職業、進学を選択した女性が目立つ。これらの動向は、佐世保の古いしがらみのない街の形成と、海軍士官や新興商人の開明的な家庭環境に負うところが大きい。その上、大正デモクラシーや『青鞜(せいとう)』の影響も見逃すことはできない。大正元年(1912)から2年後、成徳高等女学校教員であった上野葉子は、その間、『青鞜』に、現代にも通じる女性論として高く評価されている4篇の論文を寄稿した。同6年には、佐世保高女を卒業した一人の女性が『青鞜』に憧れと希望を託して上京している。
自立した職業としての女教員の活動も、この時期大きな飛躍がみられた。大正3年(1914)全国に先がけ「佐世保女教員会」が発足、以後全国大会、県大会で教科や生活指導の研修と共に、女性の諸権利獲得に取り組み、同11年、国内初の産前2週間、産後6週間の休養(文部省訓令)を実現した。
佐世保には他にも各種婦人団体があり、独自の活躍を続け、大正14年「佐世保市連合婦人会」を組織し、「全関西婦人連合会」に加盟、その中で常に「女教員会」は活動のリーダーとしての役割を担っていた。
家庭の生活改善を提唱して、明治末期に発刊された『婦人之友』の読者は佐世保市内にも多く、彼女たちは昭和に入ると、全国でいち早く「佐世保友の会」を組織、実践活動に取組んだ。現在もなお活動を続けている。
その一方、商家の女性達は、接客や住み込み店員の世話、家事仕事に追われ、農家や漁家の女性達は、自家製の野菜や漬物、魚・干物などかごにかつぎ、街角や家並の続く路地で、大きな売り声で行商にまわっていた。このようにいきいきとした、バイタリティある女性達が多かった。また、基幹産業である佐世保工廠にも250名以上の女子工員が働いていた。