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佐世保の歴史

戦争への道
昭和初期〜戦争終結

1 大軍港佐世保

 第一次大戦(1914〜18)は世界各国をまき込み、人類史上かつてない死傷者を出して終わった。その反省として国際連盟が結成されたが、アメリカ、イギリス、日本など強国による軍備競争はつづいた。軍備競争の重い負担に苦しんだ強国はワシントン、ロンドン軍縮条約を結んだ。
 大戦後は各国とも不況に苦しみ、日本も深刻な不況に落ち込んだ。昭和4年(1929)には軍人、役人、教員の給与1割引き下げが行われ、佐世保もその影響を強く受けた。昭和6年4月、海軍工廠工員1,300余名が一度にやめさせられた。市民の意気も沈む一方であった。
 不況の打開のため、政府や軍部は中国大陸への進出をはかった。昭和6年(1931)満州事変、7年に上海事変が起きた。これが泥沼(どろぬま)のような日中15年戦争の始まりである。戦争が起き、またも軍港佐世保は他の地域の不景気とは関係なく活気づいた。
 上表で見ても分かるように、佐世保軍港の軍事施設の大部分は、昭和16年の太平洋戦争前までにでき上がっている。港内にあった大小の島や船の航行の障害になっていた平瀬(ひらせ)も埋め立てられて陸地となった。
 石垣やコンクリートで岸壁が作られ、大小の艦船が横付けした。つぎつぎと完成したドックでは軍艦の修理や潜水艦(せんすいかん)、駆逐艦(くちくかん)の建造がつづいた。
 赤崎、庵浦(いおのうら)、横瀬には大容量の重油タンクが建造され、前畑の弾薬庫(だんやくこ)も大量の砲弾(ほうだん)、火薬が貯えられた。
 燃料、弾薬、食糧等の軍需物資を積んだ船や、戦場へ向う兵士を乗せた船が毎日のように出港していった。
 昭和16年1月、第7船渠(ドック)完成、当時東洋一とよばれた大ドックで8万トンの大型船を入れることができた。
 昭和17年5月には、長崎で建造中だった客船「橿原丸」がこのドックで空母「隼鷹(じゅんよう)」に改造された。また、戦艦「武蔵(むさし)」も、舵(かじ)、スクリュー、シャフト取付のためこのドックに入った。
 市内各所にあるレンガの建物は、明治中期〜大正にかけて、岸壁にそびえるクレーンは大正〜大戦中に建設された。前畑のレンガ造りの弾薬庫は明治末〜大正期に建てられていて、現在まで使い続けられている。
 太平洋戦争が始まると、多くの兵士や労働者、中学校や女学校の生徒が動員され、市内各地に工場と工員宿舎 が大急ぎで建てられていった。

表1 軍港施設の拡充

写真1 前畑弾薬庫

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