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佐世保の歴史
戦争への道
昭和初期〜戦争終結
2 都市計画と市域の拡大
市では毎年広がる一方の市街地に道路の整備が追いつかず、10年先を見越した都市計画が必要になっていた。大正8年(1919)には都市計画法が制定され、佐世保市でもこの法によって市街、道路の整備をするために大正11年臨時都市計画準備調査委員会が設けられた。
委員会は市の中央部を走る幅20mの幹線を計画した。さらに幹線から分かれる枝線を計画し、昭和4年(1929)内閣より許可された。
当時交通量が最も多かったのが本通り筋(現在のアーケード通り)であり、幅8mの道路にバス、タクシー、荷馬車が乗り入れ、人がその間を通るという状況であった。安全、衛生、産業面からも解決が急がれた。
本通りと並行していた弥生座(やよいざ)通りを拡張して幹線道路にしようということになり、昭和9年から工事が始まり、13年かかって完成した。今の国道がそれである。工事の進み具合は(表2)のとおりである。
佐世保軍港の施設は市の外にまで広がり続けた。軍港を一つにまとめて管理していくために、海軍は佐世保市と近くの町村との合併を強く求めた。
昭和2年(1927)日宇、佐世両村との合併が実現した。日宇村は13,000人、佐世村3,000人が佐世保市民となり、市の面積も2倍になった。
昭和6年の満州事変以後軍艦等の出入りがふえ、駅裏にあった佐世保商港に一般の船が出入りすることが制限され、市民生活への影響が大きくなった。代わりに相浦を商港とすることになり、相浦との結びつきが強まり、昭和14年市と相浦町(14,000人)との合併が実現した。昭和16年には、相浦に第二海兵団が置かれた。
その後も戦争は拡大の一方で、多くの人が佐世保と周辺に集められ、軍関係の工場や施設が各地に作られた。軍港の範囲も広がり、またもや合併が必要になった。
昭和17年、市北部の大野町、皆瀬村、中里村と南部の早岐町との合併が実現した。
むかしから海陸上交通の要地として栄え、鉄道の町となった早岐、石炭や軍需工場で人口がふえ村から町になったばかりの大野町、石炭と農業で豊かだった中里村と皆瀬村、それぞれ合併には反対意見もあったが、海軍や県の強い要望と戦争中という特別な事情もあって、受け入れざるを得なかった。人口28,000人が新しく加わり、市の範囲も大きく広がった。